黎明を駆る者

第2章 迎えと別れ 1

 つややかな苺で飾られたタルトに、ベリーを散らしたレアチーズケーキ。
 シナモンの効いたアップルパイに、ふんわり焼かれたレモンシフォン。
 華やかな色と香りで飾られた砂糖菓子の群れは、ただどこか歪な形をしていた。
 苺はばらばらの方向を向いて転がっており、ベリーは不自然に波打ったクリームの中に沈んでいる。亀裂が入ったパイ皮からは林檎が零れ、スポンジの小山は完全に傾いている。おそらく手作りの賜物であろう、どう見ても不恰好としか言えないその形は、しかし何故か憎めなかった。
「なんだい、その顔は。とっととお入り。見ているだけじゃ、味はしないよ」
 呆けたようにケーキを見つめる青年に威勢のいい笑声を投げ、ヴィスクは軽く肩を竦めた。
 とうに五十路を越えた身体は、最近とみに横幅を増したらしい。エプロンの腰回りに寄った皺を軽く叩いて伸ばしながら、彼女は再び口を開いた。
「見かけが悪いのは気にしないでおくれよ。ちび達が手伝うって聞かなくてさ。ハル(にい)に食べてもらうんだって、一生懸命やってくれたんだから」
 ゆっくりと顔を上げた赤黒の像を映し、丸い緑の目が笑う。戸口に立つハルの元へと歩を進めた「針鼠亭(はりねずみてい)」の看板女将は、節くれた大きな手で彼の手を取った。
 ヴィスク・ベルとハルとの付き合いは、今年で五年目……彼が母親──かつてのフィルナ西王国王女、セシリア・レティルとともにレアルに足を踏み入れて以来になる。乳姉妹としてセシリアとともに育ったというこの小柄な婦人は、ハルとセレナをごくごく‘自然に’受け入れた、数少ない人間の一人だった。
 おそらくは根っからの世話好き気質(かたぎ)がそうさせたのであろう、兄妹がレティル王家に引き取られ正式な後見を得た今も、何かにつけてふたりを気にかけている。裏のないその気持ちを知っているが故か、ハルがレアル市街地の片隅にある義叔母のこの店──「針鼠亭」と呼ばれる小さな宿屋兼食堂──に通う回数は、いまだに減ることがなかった。
 ケーキ皿が満載された卓へと真っ直ぐに向かい、断りもなく腰を下ろす。五年のうちにすっかりハルの定位置となった東窓下の席は、久々でもない主の来訪を喜んで迎えた。
「……なんだよ?」
 不意に自分に注がれた面白そうな視線に気づき、ハルが思わず眉根を寄せる。その鋭さをあっさりかわして苦笑しながら、ヴィスクはふと目を細めてみせた。
「いや、ホントにそっくりだと思ってさ」
「何が?」
 フォークとともに差し出された叔母の言葉には、ほんの少しだけ遠い響きがあった。
あの娘(セシリア)もよくそんな顔してここに来たもんだよ。兄上様やお偉いさん方に叱られてね」
「…………」
 突然飛び出した母の名に、ハルは思わずタルトに伸ばしかけた手を止めた。
「姫様のくせに、おきゃんな()だったから。王城(うち)はどうも居心地が悪いって、‘入らずの森’やらどこやらにふらっと行っちまってさ。あれじゃあ、どんな教育係もお手上げだったろうね。シェザイア隊長──今は将軍だったっけ?あの人があの年で禿()げちまったのは、十中八九セシリアのせいだろうよ。いつも必死で探し回っていたからねぇ。可哀相に」
 自分と同年輩の男の、光り輝く頭頂部を思い浮かべでもしたのか……ヴィスクがけらけらと声を立てて笑う。そのあけっぴろげな笑い顔に渋面を向け、ハルは大きな皿の隅をつかんで引き寄せた。
「……俺は別に叱られてねぇよ。ただ、おん出てきただけだ。あの狭量ジジイの説教、くらう前にな」
 真っ赤なタルトの真ん中に、銀のフォークがぐさりと刺さる。敷き詰められた苺の一つを無遠慮に抉りながら、ハルはつっけんどんな科白とともに鼻を鳴らした。
「狭量ジジイって、あんた。よく言うよ。あんないい男つかまえて」
 大仰な嘆き文句とともに腰に手を当て、ヴィスクは思わず嘆息した。
「コーザ様だって、色々大変なんだよ。ルナンとの休戦期限が切れるの、確か来月だろ?それをどうするかで議会はてんてこ舞い、北王国(きた)は言わずもがな、東王国(ひがし)南王国(みなみ)との協議も大変だっていうじゃないか。それだけまわりがごちゃごちゃしてちゃあ、余裕もなくなるってもんさ」
「器量が足りねぇんだよ、器量が。おまけにセンスも悪ぃし。服の趣味なんか最悪だぜ?何なんだ、あの馬鹿っ(ちろ)いケープ!協議がうまく行かねぇの、絶対そのせいだって」
「よく言うよ!自分のことは棚に上げてさ」
「……いていていてっ!!」
 大きな拳でごりごりと頭を擦られ、ハルは思わず悲鳴を上げた。
「あーあ、あの方も気の毒にねぇ。面倒山積みの上に、こんな問題児まで抱えちまってさ。ホント、同情しちまうよ」
「ほざけ!単に顔が好みなだけだろ!!」
「あははは!ばれちまったかい!こりゃあまいった!!」
 非難じみたハルの一言に、豪快な笑い声が上がる。その開けっ広げな明るさに思わずため息を漏らし、ハルはようやくタルトを征服にかかった。
 旬の苺を包み込むたっぷりとしたジュレは口の中でほろほろと解けながら、絶妙な甘さ酸っぱさのバランスを創り出していく。さっくりと焼き上げた台座の生地はたっぷり塗られたクリームのこくを引き立て、味わえば味わう程に存在感を増していくようにも思える。
 軽やかな音を立ててフォークが進み、皿の上の真っ赤な色味が減るにつれ、ハルの表情は緩んでいく。鼻梁の鋭い──つまりはお世辞にも人相がいいとは言えない青年が嬉しげに菓子を頬張る姿は、ある意味一種異様な迫力を……言い換えれば、強烈極まる違和感を醸し出していた。
 同年代の青年達が揃いも揃って酒や煙草を嗜み始める中、素行の悪さは折り紙付きと言われながらも、ハル自身はそちらの方面にとんと興味が無い。その代わりと言うべきか……彼は、女子供が好むような甘い菓子に目がなかった。
 ──不味い果実酒を無理にあおるより、オレンジの砂糖漬けをかじっていた方が余程いい。
 そう(うそぶ)く彼の嗜好を知り尽くした義理の叔母は、その訪問の度、自慢の腕を存分に振るっていた。
 もっとも、‘死神’の異名を取るその父親も同じ舌の持ち主だったと聞いた時は、さすがに絶句させられたというが。
「ばは、ほふひへま……」
「口にものを入れたまま喋るのはお()し。何言ってるか分かんないよ」
 上げた額をぴしりと弾かれ、ハルは口の中の砂糖の塊を急いで飲み下した。
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