「赤い……旗……?」
床に落ちたフォークの震えに、掠れた響きが低く重なる。妙にゆっくりとした仕草で上げられたハルの貌からは、先程までの苦笑じみた雰囲気がまるで嘘のように抜け落ちていた。
「……その船、どこで見た?」
「え……?」
突如気配を激変させた青年の姿に、三つ子は思わず息を呑んで立ち竦んだ。
「どこで見た!?」
刃物のような視線に射抜かれ、少女の肩がびくりと震える。小さな口から絞り出された声が、驚きと怯えでかすかに歪んだ。
「……ひ、ひろば。まちの、まんなかのひろば…………」
「……ハル!?」
答えを聞くなり椅子を蹴ったハルを、ヴィスクの慌てた叫びが追う。しかし、叔母の声が彼の耳に届いた時、その身体は既に扉の外へと飛び出していた。
全速力で疾り始めたその背中で瞬いたのは、白い焔にも似た銀の色。追い風を孕んだ‘銀翼’を一気に広げながら、ハルは勢いをつけて思いきり地を蹴った。
‘白き女神’の恩寵によって顕現するというこの力はしかし、彼女の民ならば誰もが無条件に使えるというわけではない。行使の可不可を決めるのは、ただ使用者の天資のみ。さらに制御に当たっては厳しい訓練と高度な精神修養が必要とされ、たとえ熟達した訓練者であっても決して気安く御せるものでは断じてない。故に、フィルナ西王国では余程の例外を除き、市街地での……特に一定以下の高度における‘銀翼’の使用は厳しく禁じられていた。
しかし、今のハルの脳内からは、その決まりの存在など欠片もなく消し飛んでしまっていた。
──みたことないけど、とってもきれいないろのはた!
地面すれすれの低空飛行の視界の中を、びゅうびゅうと音を立てて家並みが通り過ぎていく。驚いて声を上げる人々の隙間を縫って加速を続けるハルの耳では、先程の三つ子の科白がわんわんと反響していた。
──ハルにいのめと、おんなじいろだ!
「……ンなことが……」
──そんなことが、あるわけない。
ともすれば飛び出しそうなその科白を必死になって飲み込みながら、ハルは固く唇を噛んだ。
‘女神の徒たるもの、決して赫色を使うべからず。’
半ば不文律と化したこの慣習は、フィルナ人ならどのような無法者でも知っている。数千年にわたり厳しく行われてきた‘禁色’の規制は、そうでなくともフィルナからその色を染める技術をとうの昔に奪っていた。
赫色が象徴する国……それは、‘彼の国’をおいて他にはない。
皇帝を頂点に戴くルナン帝国の階級制度は、居住地や言語はもちろん、身に纏う衣や使う道具にまで厳しく及んでおり、中でも‘色’に対する統制は半端でない。有彩色を身に着けることが許されているのは、皇族と貴族階級のみ。それも血統や家柄によって異なる‘家章’によって、恐ろしく細かな‘色分け’がなされているという。
その百を越える家章の頂点に立つ色──すなわち‘闇夜の王’の正当なる継嗣を示す最高色が、『赫』だった。
──ルナン皇家の勅許を受けた正使が予告もなしに……しかも隅とはいえいきなり王都にあらわれるはずがない。
ことごとくマイナスに向かいはじめた思考を振り切り、青年はひたすら市街の中心へと翼を進めた。
昔散々遊んだ下町の抜け道など、知り尽くしている。中央広場への最短経路を脳内で素早く組み立てながら、ハルは人気のない裏路地へと回り込んだ。
「…………?」
砂を巻き上げて細い道を突っ切ろうとした、丁度その時……青年は、不意にあることに気づいた。
──風が……おかしい。
先程までさやさやと頬を撫でていた青嵐が、まるで嘘のようにぴたりと止んでいる。辛うじて感じ取れるのは、ごく断片的な……まるで何かに押さえつけられているかの如き、弱く僅かな名残のみ。
言いようのない不快感に思わず舌打ちを零しながら、青年は鋭く瞳を絞った。