黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 7

 体中が心臓になったかのような鼓動の轟きに合わせ、小さな枝葉があちこちに作った引っかき傷がじくじくと痛む。
 眼前に林立する木々の網は、複雑に絡まった糸目さながら、どれだけ行けども途切れない。そのわずかな隙間をかがるようにして疾駆しながら、アースロックは噛み締め過ぎて裂けた唇をぎりぎりと引き結んだ。
 一瞬たりとも気を抜けない視界の悪さ故、背後を振り返る余裕はない。
 しかし……ひしひしと背を灼く強烈な寒気は、‘彼’が己らを追ってきていることを何より雄弁に語っていた。
 相も変わらず不気味なまでに平明な気配は、どれほど振り切ろうとしてもぴったりと附いてくる。柄にもない舌打ちを呑みこみ、アースロックは腕の中のハルをしっかりと抱え直した。
 強い夜風と失血で冷たさを増した躯はぐったりとしたまま、血で濡れた服越しに感じられる鼓動だけが、かろうじて存在を主張している。
 項垂れたその表情も伺えず、また声をかける暇もない現状は、しかしアースにしてみればいっそのこと幸運だった。
 背後に迫る追跡者という当面の問題は、彼の脳内から不安を抱く余裕すら弾き出していたのだから。
「…………ッ!?」
 恐慌のような‘何か’が電流のように背を駆けたのは、その時だった。
 思いきり身を翻して左に逸れたアースの目の前を、蒼白い閃光が掠めて過ぎる。哀れ代わりに的となった樹木が音を立てて砕け散るのを尻目に、アースロックは己の血が下がる音をまざまざと聞いた気がした。
 ‘翼’を窄めて風の抵抗を流し、アースは一気に速度を上げた。
 あくまで振り切ろうとするその姿勢に、彼も肚を決めたのか、後ろでざわりと空気が波立つ。膨れ上がった風の力が無数の銛のように打ち出されたのと、アースロックが突然高度を落としたのはほとんど同時だった。
 飛来した風の刃を辛うじてかいくぐりながら、眼下に流れる沢目がけて真っ直ぐに降下する。
 人ひとりを抱えた不自然な体勢から何とか伸ばしたアースの指先が、水面をわずかに掻いた瞬間。黒く沈んだ水流は、蒸気が上がるような音を立てて天高く吹きあがった。
 飛び散った飛沫はさらに細かに爆砕し、ものの数秒で淡く濁った霧へと変貌を遂げる。
 にわかに闇を染め上げた白い紗幕に一瞬緩んだ攻撃をすり抜け、アースは沢の流れに沿うようにしてひたすらスピードを上げた。
 上がる息と血で滑る腕を気にしつつも水の気配を読み、昨晩上空から見た地勢と現在地を必死で照合する。
 ──このまま川の流れに従って西上すれば、間もなく火領土(グラウダ)の西端に至るはず。
 そこまで行き着けば、何かしら打つ手はあるに違いない。
 今のアースロックを支えていたのは、常ならば無鉄砲極まりないと一蹴しかねぬ、その思い込みだけだった。
 またも背後から飛来した風の矢が、左の腕を掠めて灼く。
 小さな痛みから滲み出た血の熱さもそのままに、アースは闇と低木に紛れるようにしてジグザグ飛行を続けた。
 水面に着弾した一撃が上げる巨大な水柱をすり抜け、真横で爆裂した岩礁をかろうじてやり過ごす。
 さらに飛び散った細かな岩片を躱すべく、大きく上体を捻った……その刹那。
 アースロックは、思わず呼吸を忘れた。
 突如として蒼白く拓けた視界が、何かの冗談のようにぐらりと歪む。
 見開かれた翠の瞳に映っていたのは、黒く光る水面でも網のような木々の枝でもない。
 ふたつの月を頂いた、一面の(そら)だった。
 先刻まで標のように辿ってきた流れは切り立った断崖を越え、儚い一条の滝となって、深い淵へと墜ち込んでいる。
 思いもかけず出現した広大な空間に、アースロックの思考は一瞬、完全に停止した。
 遮蔽物など何もない広漠とした闇の中、ほの白く発光する翼は、何よりの的となったに違いない。
 そして……それを狙う狩り人の腕は、いっそ清々しいまでに冷徹だった。
 いつしかとっぷりと降りた夜の帳を引き裂いたのは、鋭い弧を描いて飛んだ鎌鼬の群。
 その残像をアースロックがようやく捉えた時……蒼白く刃は、既に彼の目の前に在った。
 恐怖よりも惑乱にすくわれた身体はバランスを崩し、翼を激しく明滅させながらぐらりと傾く。
 避け切れなかった風刃に身を裂かれながらも、どうにか体勢を立て直そうとした、その瞬間。
 アースロックの右肩は、投槍のように練り上げられた風の力に狙い違わず打ち抜かれていた。
 骨が砕ける歪な音とともに脳髄を直撃したのは、烈火のような熱さとひたすらに苛烈な衝撃。
 かつて経験したことのない激痛の嵐の中……アースロックは悲鳴すら上げられぬまま、ただその身を強張らせることしかできなかった。
 真っ赤に染まった視界の中で、玲瓏と輝く月が跳ね上がるようにして反転する。
 制御を失った翼が霧散していく薄ら寒さとともにアースの脳裏に落ちかかったのは、強烈な浮遊感と……そして、五感すべてを圧し潰さんばかりの圧倒的な睡魔だった。
 闇の狭間へ真っ逆さまに墜落していく中、彼が確かに感じたのはたったふたつ。
 左の腕にかかった冷ややかな重みと、それを抱き締める己が身の狂ったような熱だった。

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