黎明を駆る者

第5章 光の雨の降る夜に 7

『……私の家族は、私が物心ついた時には旅をしていました』
 ゆらゆらと揺らめく燐水晶(りんずいしょう)の灯りが、書架に収まる金装丁の本たちを照らす。その淡い煌めきの狭間に置かれた長椅子に腰掛けたまま、セレナはぽつりと言葉を零した。
『足を止めれば囚われると、町から町へ、村から村へ。捕まる事はなかったけれど……それでも、一所に落ち着いた事は一度もありませんでした。あの森──‘入らずの森’の深くに、家を建てるまでは』
『……当時は皆、貴女の家族を血眼になって探していたと聞く。賢明な判断であろうな』
 少し赤みを帯びた翠緑玉(エメラルド)を射たのは、相も変わらず冷然とした(あか)
 長椅子から少し離れた壁際に立つルスランの姿は、夜に溶け込みそこねた影法師のようにも見えた。
『この国で──否。この世界で、死神(グライヴァ)公の事を知らぬ者はいない。ましてや存命時なれば、彼の武功も愚行もともにあまねく知れ渡っていたはず。むしろ、よく十五年も逃げ延びたものだ』
『……ええ』
 どこまでも淡々たる男の声を追いながら、乙女はどこか寂しげな色とともに微笑った。
『……旅の途中も、森に辿り着いてからも、色々な事がありました。本当に色々な事があったけれど……辛いと思ったことは、一度もないのです。私の傍らには、いつもハルが……兄がいましたから』
 ほんのわずかに緩んだ声に応じたのは、温度のない沈黙。
 ひとしきり泣き尽くしたセレナが涙をおさめてから、ようやく気を落ち着けた今の今まで、黒衣の男は彫像の如く、ただその場に佇み続けている。
 相も変わらず冷淡な気配は、擦り切れた心の裡をより深く抉ろうとするかのよう。
 しかし……今のセレナには、その容赦のなさが却って有り難く感じられた。
『五年前、両親が亡くなった時……私たちは、本当の意味でふたりだけになりました。それでも、兄はいつも私の側にいてくれました。フィルナに引き取られ、互いの進む道が別れても、それはずっと変わる事がなくて。気がつけば、兄が隣にいる事が当たり前になっていました。私は……彼に支えられて生きてきたのです』
 長い銀糸の睫毛の下、柔らかな愁いを帯びた翠の色がゆっくりと瞬く。その内に映り込んだルスランの面が、淡い光に合わせて揺れた。
『……ルナン(ここ)に来ると決めたあの時、甘い考えは捨てました。何かに寄りかかっては生きてなどいけまい、頼みとするのは己のみ。そう割り切ったはずだったのですが……』
 己を見据える冷えた視線にそっと目を伏せ、セレナは幾分自嘲的な科白とともに嘆息した。
『……あなたを責めてなどおりません。ただ、私が弱かった。それだけのことです。だから、どうか気になさらないで。先程のことは、お忘れ下さい』
 ひたすら柔らかな調子で紡がれた囁きには、一欠片の棘も皮肉も含まれていない。
 その残響がもたらした静寂を、同じくらいの穏やかさで打ち払ったのは……相も変わらず単調なテノールだった。
『……何かを頼みに生きることが悪いとは、誰にも言えまい』
 思いもよらぬ(いら)えの言葉に、乙女は我知らず白い面を上げた。
『貴女は己を(かどわ)かした人間を前に、感情に流されることなく、自分にとって最も有利な道を選び取ろうと足掻いている。その力の源は、先程貴女が述べた、兄の支えではないのか?』
 血塗られた抜き身よりも鋭利な眼光が、声なき驚きに見開かれた翠緑玉を射抜く。裂けた袖を気にも留めずに腕を組み、ルスランは再び口を開いた。
『ここは貴女にとって決して安楽な場所ではない。運命と諦め、我らに身を委ねるというのならそれでもよい。だが、逃げずに踏みとどまり、打開策を求めるというのなら……遠慮なく寄りかかればいいではないか。貴女が頼みとしてきた、兄への思いとやらに』
 端然と紡いできた言の葉を不意に切り、ルスランはふと切れ長の瞳を細めた。
『もっとも……その兄を屠ったやもしれぬ私が、言えることでもないが』
 相も変わらず剣呑とした赫が、不意にわずかに視点を失う。戸惑いにも似たその変化を……乙女はただ、予想だにせぬ驚きとともに見つめるほかなかった。
 口調も表情も一切変えることなく放たれたのは、()の身内に──それもつい先刻、自分に煮え湯を呑ませた者に向けたとも思えぬ科白。その言葉が孕む意味も、それを発した男が見せたわずかな動揺も……気まぐれの戯言とやり過ごすには、いささか重みがあり過ぎた。
 何よりもセレナを惑わせたのは、その声に宿った‘力’そのものだったろう。
 断罪の槌音の如く告げられた、迷いなき言の葉は、彼女の心にたゆたう自己嫌悪の(おり)に、思いもかけない波紋を広げようとしていた。
『……いいえ』
 温度のないテノールが語ろうとしたのは慰めではなく、むしろ彼自身の経験に裏打ちされた事実(・・)そのものだったのかもしれない。
 セレナの脳裏にふと過ったその閃きは、危うい緊張の中で保ってきた彼女自身の軸を、図らずもかすかに揺らがせることとなった。
 まるで……世界でただひとりの同志に出会ったかのような、何とも言えぬ心安さを以って。
『……あなたにも、いらっしゃるのですね。支えとするべき御方が』
 清かな科白と眼差しに応じたのは、相も変わらず微動だにしない気配と、そして沈黙。
 かすかに伏せられた赫眼が、薄暗がりの隙間を撫でるようにして泳ぐ。
 その視線が、幾度かの瞬きの末に行き着いたのは……隙なく書架が並べられた中、不自然に間が空けられた壁際の一角だった。

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