黎明を駆る者

第1章 死神の子 2

「……ふざけるな!!」
 半ば吐き捨てるような独白とともに、仰々しい士官服の襟を引きむしる勢いで寛げる。丈夫な布が嫌な音を立てて引き攣れるのにも全く構わず、ハルは手入れの行きとどいた芝生を荒々しく踏みにじった。。
 中庭で行われている特別な──先程までハル自身も参加していた催し物のためか、広い王宮の敷地内に人の姿はない。その静けさを突然荒らした闖入者に驚き、茂る木々から瑠璃色の小鳥が飛んだ。
 ラウキと呼ばれる鳥の声は、恋人に囁きかける詩人の歌のように甘く優しい。しかし……その美しい囀りも、今の彼の苛立ちを鎮めることはできなかった。
 脳裏で嫌になる程鮮明に渦巻くのは、競場の喧騒に紛れて響く観衆の囁き。
 ごく小さな声をさらに潜めるようにして紡がれたであろう言の葉は、それでもはっきりと青年の耳に届いていた。
 ──恐ろしい……コーザ様は何故あのような輩をここに置かれているのか。
 ──あの眼を見ろ。まるで血の色だ。気味が悪い。
 ──いつ何時我らに牙を剥くか、分かったものではないわ。
 悪意がそのまま具現したような呪いの文句も、慣れてしまえばどうということもない。
 記憶の中でなお忌々しそうなその声に、ハルは無意識のうちに薄く唇を歪めていた。
 ──何せ、あれ(・・)は奴の子だ。たった一人で北王国を潰した、あの化け物……‘ルナンの死神’のな……
『‘ルナンの死神(グライヴァ・リ・ルナン)’か……』
 皮肉めいた声音で紡がれた科白に在ったのは、どうにも隠せぬ一抹の棘。
 フィルナ語にない発音とアクセントは、その鋭さを余計に際立たせた。
 もしこの場に誰かがいたならば、即座に顔色を変えていたに違いない。
 ハルの口から滑り出たのは、まぎれもない異国の──そして、敵国の言葉だった。
 フィルナ国家連合において「異国」……あるいは「敵国」という言葉が示す対象は、ただのひとつしかない。
 エリアの西半分を統べる巨大な帝国──ルナン。
 ‘白き女神(シュリンガ)’とともにエリアを創ったもう一柱(ひとはしら)の神‘闇夜の王(クヴェラウス)’の寵を受けるという国の名がフィルナの民に想起させるのは、ただ恐怖と嫌悪のみ。
 その負のイメージは、‘常夜の徒’と呼ばれるに相応しい外見──漆黒の髪と血色の瞳──を持つルナンの民が「異国」に対して抱いているものと、何ら変わりのないものだった。
 フィルナとルナンの仲がいつ、そして何故壊れたのかを記す資料は何もない。しかし、国の仕組みも何もかもが異なる二大勢力間での小競り合いは、有史以前より脈々と続いてきた。幾千年を経てなお尽きることない争いの火種は、今もそこかしこに飛び火を続けて久しい。
 特にエリアの中心部に広がる広大な樹海‘入らずの森’を挟みルナンと国境を接する西王国と北王国とは、常に激しい緊張を強いられてきた。
 樹海の国境線を巡る度重なる衝突の末、北王国は三十年前に大規模な奇襲を受け、首都の大部分が焼失。一時は国家機能が瓦解する寸前にまで追い込まれた。
 隣国たる西王国も、事情は似たようなもので。激しい攻撃に幾度となくさらされながらも、どうにかして自領を保っている。
 その状態は、五年前に休戦の一時協定が結ばれてもなお変わることがない。
 美しい水の都はまた、堅固な城塞都市でもあった。
 不意に緩んだ青年の歩みを、ラウキの羽音が掠めて止める。
 自分が彼の国の言葉を口にする度眉をひそめる面々を思い、ハルは我知らずの内に低く嗤っていた。
 それが単なる敵国への嫌悪のみに拠るものでないことを、彼はよく知っている。
 彼らを狼狽させているのは、自分の姿に映る、ある男の面影に過ぎない。
 五年前レアルに足を踏み入れた時から、青年は既にそのことを悟っていた。
『……何も知らないくせにな』
 溜息とともにひとり()ちながら、ハルは己の右腕を見遣った。
 磨き抜かれた金属に映った姿は、どこか奇妙にぼやけて見える。それでもなお強烈な色に彩られた自分の虚像をまじまじと見つめ、青年はくつくつと喉を鳴らした。
 やり場のない憤懣(ふんまん)は、いっそ諦めにも似ている。
 ひとひらの醒めた翳を持て余したまま、ハルは足元の小石をおもいきり蹴り上げた。
「……ハル!」
 唐突に、しかも自分が一瞬立ち止まった隙を計ったかのようなタイミングで響いた声に、ハルは思わず顔を上げた。そのまま後ろを振り向いた彼を、緑の眼光が射抜く。快活な足音とともにハルを追ってきたのは、彼と同じく白い士官服を着た銀髪の青年だった。
 年の頃はハルと同じくらいであろう、大きな緑の瞳が印象的なその顔には、未だまろやかな幼さが残っている。よほど急いで走ってきたのか、フィルナの男の慣例にならい短く切られた彼の髪は、しとどに汗に濡れていた。
「待てよ……ちょっと待てったら!!」
 素早く翻りかけたハルの腕を、青年の右手がはっしとつかむ。内心の苛立ちを隠そうともせずに再び首をめぐらせながら、ハルは鋭い舌打ちを零した。
「……何だよ?」
「何だよ、じゃないだろう!どういうつもりだ!?あんな風に抜け出すなんて!!」
「……お前に関係ないだろう」
「ある!」
 突き放すように紡がれたハルの言葉を言下に否定し、青年はきりりと顔を上げた。
「お前は主席だろう!いわば士官学生(おれたち)の筆頭だ。その顔役が、あんな態度でどうするんだよ!!今日の試合は、東王国と南王国の使者も見学していたんだぞ。それこそ、国の面目丸潰れじゃないか!」
 鬱陶しそうに己を見つめるハルの様子を知ってか知らでか、青年は再び真っ直ぐな言の葉をぶつけてきた。
「大体、最近のお前の所業は目に余る!規定に違反して髪を伸ばしたり、学舎内に無断で婦女子の集団を引き入れたり……。シェザイア将軍も頭を抱えていたぞ!お前だってレティル王家の人間なんだから、ちょっとは自重しろよな!!」
「………………」
 恐ろしく真っ直ぐな緑瞳は、半開きの赤目を捉えて離そうともしない。
 一片の曇りもないその視線は、ハルの奥でくすぶり続けていた感情の温度をじりじりと上げていった。
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