黎明を駆る者

第1章 死神の子 5

『……戦ってると、聞こえてくるんだよ』
 無意識にか、それとも故意にか。低く零れたハルの声は、いつの間にか‘彼の国’の言葉を紡いでいた。
『あれがあの‘ルナンの死神’のガキだ、忌まわしい、気をつけろ、ってな。馬鹿じゃねえの?人を殺人鬼みたいに言いやがって。誰が好き好んで人殺しなんぞするかよ。何も……何も知らないくせに……』
『……何も知らないからこそ、噂するのでしょう』
 流暢なルナン語とともにハルの手を包みながら、セレナはどこか寂しそうに微笑った。
『知れば、本当のことが分かってしまう。その事実が怖いから……皆耳を塞いで、ただ囁くのでしょうね。憎む理由……争う理由を失わない為に』
 淡々と紡がれる乙女の科白に、ハルがかすかに身じろぎする。
 何も言わずに手を握り返してきた青年の顔を真っ直ぐに見つめ、セレナはゆっくりと言の葉を継いだ。
『……でも、忘れないで。父様もあなたも、理由なく人を傷つけるような方ではない。そのことを、たとえひ一人でも分かっている者がここにいるということを……どうか兄様、忘れないで』
 儚く……それでいてまるで世の理を説くかの如き決然とした声で発せられたのは、あらゆる欺瞞や理屈を抜いた(まこと)の言葉だった。
 空気に溶けたその余韻が、強張ったハルの肩を柔らかく抱く。その頬にこころなしかのあたたかみを取り戻しながら、青年は‘妹’の──この世で唯一自分と同じものを背負った乙女の笑みに、無言の相槌を返していた。
 刹那、ふと脳裏に去来したのは、甘く柔和な笑い声。
 目の前の乙女のそれによく似たその響きは、ハルの脳裏に鮮やかな、そして少しだけぼやけた像を結んだ。
 ──フィルナとか、ルナンとか……そんなの、関係ないわ。
 どこまでも果てしなく続く、鬱蒼と茂った森の濃密な緑の色。
 その中に埋もれるようにして建つ家の、飴色の木目の形。
 柔らかなラグを敷き詰めた居間は、少しだけ天井が低くて。
 まるで連想のように次々と浮かび上がる光景の中、彼の記憶が最後の最後に描き出したのは……長い髪を編み、揺椅子に掛けた女性の姿だった。
 ──どちらも、同じ。ただの人よ。少なくとも、私は、そう信じてる。ハラーレも、あなたたちも皆、大切で愛しい私の家族だもの。家族を大切に思う気持ちは、きっと誰でも同じでしょう?
 朗らかな緑の瞳が見上げるのは、その横に寄り添うようにして立つ長身の男。
 同調の言葉や(いら)えがなくとも、その紅玉(ルビー)の瞳はひどく穏やかで。
 毒々しいまでのコントラストを刻みながらも、彼らの貌は毅然たる意志の光と……そして、哀しい程に綺麗な微笑に満ちていた。
 セシリア・レティルとハラーレ・ヴァイナス。
 フィルナ西王国の王妹と、‘ルナンの死神(グライヴァ・リ・ルナン)’の異名で恐れられたルナンの将が二十年前に果たした出会いは、本来ならば憎しみに彩られてしかるべきものであったに違いない。
 しかし、彼らを絡め取ったのは、性質(たち)の悪い悪戯にも似た、何とも数奇な網の目だった。
 時は二国の争いが激化の一途を辿る最中、いくら偶然の産物と言えど、二人の思いは許されざるものでしかない。
 吟遊詩人は、哀れみめいた旋律とともにその顛末を詠う。
 両の同胞に追われ、追い詰められ……。それでもなお共にいることを望んだ恋人達を待ち受けていたのは、泡の如く儚い結末でしかなかった、と。
『……何故、だったんだろう』
『…………?』
 唐突に零れた疑問符に、セレナがふと顔を上げた。
『五年前……父上と母上は、どうして‘入らずの森’を出たんだろう。あのまま静かに暮らしていれば……少なくとも、あんなことにはならなかったのに』
 つとめて平明に紡がれる声は、それでもかすかに掠れている。
 我知らず漏れた重いため息とともに、ハルは再び顔を伏せた。
『……確かに、フィルナとルナンのどちらからも、追手はかかっていた。でも……父上が本気になれば、どうとでもなったはずだ。なのに、何故……』
『……分かりません』
 目の前でうつむく兄に……そして己自身に言い聞かせるかの如く囁きながら、セレナは寂しげに嘆息した。
『でも……もしかしたら、何かを変えたかったのかもしれません。自分たちの、だけではなく……今のこの状況そのものを』
『今の、状況……?』
 思わずそう問い返した兄の顔を見上げ、セレナはふと鮮やかな微笑を浮かべてみせた。
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