黎明を駆る者

第1章 死神の子 7

 エリアの空は、フィルナ語で‘サイザン’、ルナン語では‘ヴァラルダ’と呼ばれている。その単語はどちらの言語でも全く同じ、‘空の道’を意味していた。
 浮遊するエリアの大地は、その中央にある‘入らずの森’から出でる多種多様な湧泉のため、非常に複雑な様相を呈している。中でも、森を南北に分断して広がる巨大な湖──フィルナ語で‘永久の源泉(エーリ)’、ルナン語で‘森海(ウォルヴァイズ)’と呼ばれる源泉を中心に広がる大水系は、浮遊大陸の隅々にまであまねくその根を伸ばしていた。
 深く複雑に穿たれた清水の路地は、当然ながら周囲の地形の平衡を崩す。確実に……そして何より安全に渡ることができる道を求めたエリアの民は、それを起伏の激しい大地ではなく、果てなく広がる空の上に創り上げた。
 実際、主要な諸都市──フィルナにおいてもルナンにおいても、そのほとんどは丘陵状に盛り上がったゆるやかな高地に築かれている──の中に、飛空挺の離着陸施設を持たないものはない。巨大な浮遊船や有翼の騎獣が頭上を行き交う光景は、日常の一風景として人々の目に溶け込んでいた。
 しかし、今……凄まじい速さで風を掻いている船は、その‘日常’の範疇から明らかに外れていた。
 優美な流線型を描く巨大な胴と長い翼に、長槍の群れのように林立する帆柱。そしてその随所に取り付けられた大小様々の羽根車は、全て射干玉(ぬばたま)の色に塗られている。降り注ぐ日差しをはね退けて輝くその色の異様な深さは、それらがおおむね特殊な──とりわけ戦船としての防御処理を施されていることを何よりも如実に物語っていた。
 船首には飾太刀を模した美しい彫刻が置かれ、その先端には目の覚めるような紅の旗が掲げられている。掲げられた太刀に絡みつく、双頭の黒龍──恐ろしく複雑に意匠化された‘闇夜の王(クヴェラウス)’の旗印は、紺碧の風に翻りながら悠然とその姿を晒していた。
『進路は正確、速度も良好。到着まで、半時もかからないと思うよ』
 吹きつける風を縫って響いたのは、弾むような言の葉の連なりだった。
『でも、これ、ホント早いや。さすがは‘王の御座船(ヴェルディア・ラクーン)’。乗り心地、他の飛空挺とは全然違うもの』
 驚嘆の吐息とともに紡がれた声には、未だ淡い少年の名残がある。
 少し複雑なアクセントに彩られたその言葉の運び調子は、数多の韻を散りばめた美しい(うた)のようにも聞こえた。
『生まれてはじめて乗る(ふね)がコレだなんて、君も運がいいね。普通だったら即船酔い決定、桶を抱えて床を這っていたろうに。こんな風にゆっくり景色を見るゆとりなんて、きっとないはずだよ』
『……少し静かにしていただけないか。貴公のおかげで、うまく風が掴めぬ』
 無邪気なくすくす笑いに重なったのは、落ち着いた男の声。
 チェロの低音を思わせるその響きは、鋭く冷ややかな緊張に満ちていた。
『ゴメンゴメン。‘入らずの森’を渡るのなんて久しぶりだから、ついはしゃいじゃった』
 反省の色など全く感じられない言葉は、それでも一応謝辞らしい。
 わずかな沈黙を経て再び発せられた‘少年’の声は、相も変わらず飛び跳ねていた。
『そういえば……君は初めてだったっけ。異国(・・)の風は、どんな感じだい?』
『……いささか生ぬるい。平穏に溺れているという噂は、あながち偽りではないかもしれぬ。これならば、難なく御せよう』
『風の術士にもバレずに?』
『並みの呪力(ちから)の持ち主では、気付くことすらなかろう。心配は無用だ』
『……どうかなぁ?』
 間延びした疑問符に含まれた一片の低さは、うねり逆巻く風の流れに解けて消えた。
『意外と、感じ取っちゃうかもよ?何せ、あの‘風の支配者’の血を引いているんだもの。甘く見ない方がいいと思うけれど?』
『…………』
 唐突に訪れた沈黙を、一体何と捉えたのか。おもむろに会話を切り、少年はくつくつと喉を鳴らした。
『……強かったよ』
 唐突に疾さを増した空気に押され、羽根車がひときわ大きな音を立てる。その勢いにさらわれた呟きには、多分に戯れめいた……それでいてどこか不思議な深さがあった。
『君は知らないだろうけど……‘彼’は、本当に強かった。僕なんかじゃ、とても敵わないくらいにね』
『……彼ら(・・)は、その力を継いでいるということか』
『さぁ?』
 言葉をふわりとはぐらかし、少年は再び密やかに嗤った。
『それは、僕にも分からないよ。だから、会うのが楽しみなんだ。文字通り、待ち遠しくてたまらない。久々のお楽しみ(・・・・)だもの。退屈しのぎにはもってこいさ』
『……貴殿の個人的な思いは、私のあずかり知らぬことだ。ただし……目的だけは、くれぐれも忘れられるな。余計な諍いは控えよとの仰せは、‘支配者’の名にかけて守っていただく』
『分かってるよ。今回、僕はただのお手伝い。ちゃんと言うこと聞いてあげるから、君の好きなようにやればいいさ。そう……好きなように、ね』
 はためく紅い旗を掠めながら、鮮やかな笑声は天へと昇った。
 その音色に重なるようにして、鋭い汽笛が甲板を揺らす。
 程なき到着を示す金属の(いなな)きを切り裂いて響いた男の声は、まるで恐ろしく鋭利な刃のように硬く……そして奇妙な程に平坦だった。 
『闇夜の王に言祝(ことほぎ)を。さすれば、勝利は我らのものとならん』
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