黎明を駆る者

第2章 迎えと別れ 5

「…………っ!!」
 頬をぬるく撫でた風に、焦げた臭いがふわりと混ざる。
 震える足を必死で叱咤し踏ん張らせながら、青年はゆらりと顔を上げた。
 おそらく目を灼かれたのであろう、先刻広場を埋め尽くしていた群衆のほとんどは地に伏し、口々に呻き声を上げて転がっていた。身体のあちこちを煤で真っ黒にしたその姿は、さながら頭から煙突に落ちた掃除人のようにも見える。驚きのあまり昏倒した者もいるにはいるようだが、それでも軽い火傷以上の傷を負った者はいないらしい。
 彼らの無事をようやく見届け、ハルは頭上に向けて突き出していた腕を崩れるように振り下ろした。
「な……何だったんだ!?」
「一体何が…………!?」
 怯えを含んだ囁きをどこか遠くで聞きながら、青年はゆっくりと己が両手を見遣った。
右手の手甲(ガントレット)がなければ、腕全体が燃え上がっていたに違いない。歪な動きで握られた彼の掌は、まるで炎の雨に打たれたかの如く、半ば真っ赤に爛れていた。
 我知らず吹き出た冷たい汗が、嫌な感触を残しながら背筋を伝う。声もなく呻く青年の惨状に、ようやく気づいたのか……彼の脇で身を起こした若い男が、悲鳴のような声を上げて後退った。
「あ、あんた……手……」
「……逃、げろ……!」
「…………は?」
 ぽかんと目を瞬かせた若者に燃えるような一瞥を投げつけ、ハルは再び声を張った。
「とっとと逃げろ!次が来る!!」
「ひ……ひえぇっ!!」
 青年の叫びに顔色を変えた群集が、蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出す。瞬く間に周囲を満たした悲鳴と怒号を押しのけながら、ハルは真っ直ぐに頭上を振り仰いだ。
 引き絞られた赤い虹彩の中で、逆巻く紫煙がぐにゃりと乱れる。
 その先に再びまばゆい光が点ったのは……青年が素早く右手を翻したのと、ほとんど同時だった。
「……ッざけんなァ!」
 悲鳴のような音ともに具現した火球を過り、貴石を戴く紫の手甲が剃刀のように閃く。
 転瞬……眼前の空気を薙いで振りかざされた青年の手の内には、彼の身の丈程もある長大な鎌が出現していた。
 灼熱の煌めきを映した刃の背後で、淡く輝く光の翼が一気に顕現する。巨大な焔が真っ逆さまに打ち出されたその時、煙を切り裂き舞い上がった銀の軌跡は、既に天空の只中へと駆け上っていた。
 焔を遥かに越えた質量の熱は、音を超える速度で猛然と迫り来る。しかしハルはその熱さに一寸たりとも怯むことなく、両手の得物を思い切り薙ぎ上げた。
 長大な刃から打ち出されたのは、大嵐をそのまま圧縮したかの如き真空の刃。
 そのまま一飛びに飛来した風刃は、縮地のごとき疾さで熱塊を目指し……次の瞬間、凄まじい轟音を立てて激突した。
 閃光の如き輝きと鯨波にも似た爆風とが、天地を繋ぐ蒼き狭間を襲う。
 目に見えない、しかし恐ろしく研ぎ澄まされた風の力は、火炎の球を弾丸さながらに打ち抜き……間髪入れず、花火のように四散させていた。
 花弁のように舞い散った焔の欠片が、嫌味な程に晴れ渡った蒼穹を茜色に染める。広場に伏せる群衆達に襲いかかろうとしたその残梓を邪魔だとばかりに一薙ぎしたのは……再び激しく巻き上がった、鞭のような疾風だった。
「……ブッ潰す」
 乱れに乱れた黒髪の下……完全に据わった紅玉(ルビー)が、蒼穹に佇む艦をぎろりと睨み上げる。
怒りと興奮とで微かに震える両腕が、再び鋭く翻されようとした……その刹那。
 青年の‘間’をまるで狙いすましたかのように穿(うが)ったのは、不可思議かつ複雑な……しかし聞き慣れた言の羅列だった。
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