黎明を駆る者

第2章 迎えと別れ 8

 弾むような軽口の裏に潜む響きは、紛う事なく冗談ならざるもので。
 そのことを悟った時……ハルは、自分の顔から血の気が引く音を聞いたような気がした。
 唐突に視界を覆った真っ黒い闇が、ケレスの顔をぐにゃりと歪める。混乱のループを描いた思考は瞬く間に少年から外れ、茶器を持った銀髪の乙女の微笑を結んだ。
『君の妹は、きっと断らない。いや、断れない。彼女を迎えに行った使者君、礼儀正しいけれど、とっても押しが強いからねぇ。大層賢い()と聞いているから、きっと空気を読んでくれるはず。今頃はもう、あの船の上にいるはずさ。ふたりそろってね』
『セレナには何もするな!手ぇ出したら、本気でぶっ殺すぞ!!』
『ぶっ殺すぶっ殺すって君、相当口悪いね。レジェットも真っ青だよ。ハラーレは一体、どんな教育をしたのやら』
 怒りと焦りにあぶられたハルの声に、少年が呆れた調子で肩を竦める。
 そのふざけ声に……ハルの正気は、呆気なく振り切れた。
 瞬時に沸点を超えた激情の叫びが、わずかな間合いを一気に踏み抜く。音速の旋回とともにケレスの首へと突きつけられた大鎌は、皮膚を突き破る直前の位置でぴたりと止まっていた。
『……止めた方がいいよ』
 刃越しにハルと顔を突き合わせたまま、ケレスは唇に乗せた笑みを深めた。
『君が僕に何かしたら、あの船がまた雨を降らせる。馬鹿みたいに熱い、炎の雨をね。そうなったら……きっと休戦なんて吹っ飛んじゃうよ?』
『…………!!』
 体を突き動かす情動を、最後の理性が抑える。腕を震わせ唇を噛んだハルを嗤い、天使のような小悪魔は残酷なまでに無邪気な声を零した。
『それとも、さっきみたいに止めてみる?君を疎んでいるフィルナ人(ひとたち)を救って、名誉でも挽回してみる?僕達の仲間と勘違いされて袋叩きにされる英雄なんていうのも、なかなか乙なものかもしれないよ?自分の同胞(なかま)に火あぶりにされて死んだ、君の母上みたいにね』
『…………っ!!』
 捻れた衝撃と化した忍び笑いに、ハルの肩がびくりと揺れる。
 その拍子に乱れぶれた大鎌の刃は、少年の頸元に浅い傷を穿った。
『……とっくに、気づいているくせに』
 ひび割れたハルの瞳を真っ直ぐに見据え、ケレスは不意に声を落とした。
『君は異端者なんだよ。君は、何もできない。どんな犠牲を払っても、何も認められない。少なくとも、このフィルナではね』
 傷ひとつない指が、首に宛てがわれた刃を軽やかに逸らす。翻されたしなやかな手は大鎌の柄を辿り、そのままハルの両手を引き寄せた。
『妹に会いたくなったら、会いに来るといい。でも……それまでに、よく考えておいて』
 細かに震えるハルの掌をやんわりと握ったケレスが、再び口を開いたその瞬間……青年の手を覆ったのは、不気味なまでに温かな感覚と、淡く仄めく緑色の光。新緑を具現化させたようなその輝きはハルの腕を包み、そしてその傷をみるみるうちに癒しはじめた。
 ──自分がいるべき場所は、どこなのかを、ね。
 声に出さずにそう呟き、少年はするりとその身を翻した。
『それじゃあ、また……ね。帝都(ランス)で待ってるよ』
 あらゆる感情がない混ぜになったハルの面にあどけない笑みを返すや否や、ケレスは一気に天へと舞い上がった。
 それを合図と捉えてか、警笛を鳴らした戦艦が、優雅な体をゆっくりと浮上させる。重々しい轟音と……そして、それに混ざって近づいてきた小さな駆動音をどこか遠くで聞きながら、ハルは両の手から得物をするりと滑り落とした。
 ──とっくに、気づいているくせに。
 虚空へと吸い込まれた大鎌は、その蒼さに溶けるが如く、あっさりと形を亡くす。その様を無感動な瞳で捉えたまま、ハルはふと地上に視線を遣った。
 所々が煤け汚れた広場の上には、先程あれほどひしめいていた群衆の影などとうに無い。しかし、建物の影に隠れた数人が空を……正確にはその只中に立つ己を伺うその眼差しには、どれほどの距離を経ても隠しきれぬ恐怖と、そして憎しみにも似た敵意が含まれていた。
 ──君は、何も出来ない。どんな犠牲を払っても、何も認められない。
 心の裡で反響する甘やかな科白を、広場を横切る小さな白影と、甲高い警笛の音とが切り裂く。
 遠ざかる黒艦を今更ながら追い始めた、フィルナ西王国の空挺部隊──しかしその内の幾艇かは、明らかに此方を目指して向かってくる。その舳先に取り付けられた鋼鉄の砲身が、自分に真っ直ぐ向けられている事を悟った時……ハルは思わず、引きつりめいた呼気とともに口元を歪めていた。
『は……ッ』
 ──少なくとも、このフィルナではね。
 不遜につり上がった唇から、我知らず低い笑声が漏れる。自分の顔が全く笑っていないことに気づきながらも……ハルは、喉を突き上げるその律動をどうしても止める事が出来なかった。
 再度響いた金属の嘶きに、乾いた哄笑が重なる。
 その全てを平らかに飲み込んだ果てない空は、抜けるような青色をたたえたまま、ただ静かに凪いでいた。
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