黎明を駆る者

第3章 常夜の国へ 3

 欠けたふたつの月が、中天へと昇りはじめたその頃。
 夜の闇に包まれたレアル市街は、死んだような静寂に包まれていた。
 昼間の大騒動の反動か、はたまた突如布告された戒厳令のためか。平生ならば灯りと賑わいに溢れているはずの町に、人はおろか光の気配はまるでない。立ち並ぶ民家はもちろんのこと、猥雑に賑わうべき酒場通りや花街までもが看板を下ろし、固く戸を閉ざした様は、まるでいにしえの廃墟にも似た寒々しさを醸し出している。
 その静寂の中……粛々と石畳を歩いていたのは、夜から抜け出たような黒い影だった。
 すらりとした中背が纏うのは、頭から爪先までをすっぽりと覆い尽くすような長い外套(マント)。黒手袋に鎧われた左手の手綱の先には、(ばい)を食ませ、僅かな荷を負う黒毛の天馬。
 全てを闇色に鎧ったその姿は、さながら四つ辻を彷徨する亡霊か、あるいはその妄執を狩りに参じた死の遣いか。いかにも恐ろしげな雰囲気を漂わせるその様に反し、刻まれる足音(リズム)は大層規則正しく、それでいて体重を感じさせぬ軽さを感じさせる。
 その歩みが途絶えたのは……漆黒の人馬が、細い辻に入ろうとしたその時だった。
 不意に一切の動きを止めた黒影が行く先には、街路脇に置き捨てられた古い木箱の山。一見すれば何の変哲もないそのひとつを、フードの奥から仄見えた深紅の視線が微かに映した……次の瞬間。
 悲鳴のような音とともに夜気を裂いたのは、紫の尾を引く一薙ぎの烈風だった。
 音も連れずに炸裂した撃は、積み上げられた木箱の山を木っ端微塵に打ち砕く。舞い上がった木屑の白が、淡い闇夜を埋め尽くしたのと……その中から灰色のフードを被った小柄な影が転がり出てきたのは、ほとんど同時だった。
「……う、わっ!?」
 間の抜けた悲鳴を嘲るかの如く、紫電──否、紫の光芒を宿した大鎌が、ふわりと優雅に空を切る。その切っ先が、再び光を増した瞬間……あたふたと後退った灰色の塊は、悲鳴とともにフードを引きむしっていた。
「待て!ちょっと待て!!俺だよ、俺!!」
「……誰だよ」
 冷ややかな声とともに翻された刃が、へたり込んだ影の鼻先でぴたりと止まる。
 街灯に照らされた蒼白い顔を見下ろしたまま、黒影──いやハルは傲然と言葉を紡いだ。
ルナン(むこう)に、どこかの馬鹿王子そっくりの従兄弟がいるなんて話……俺は聞いてねぇぞ」
揶揄にもならないハルの声音に、固まったアースロックの頬がびくりと引きつる。その髪は……一体何を使ったのか。闇に溶け込むような射干玉(ぬばたま)の黒に染められていた。
 新緑のような翠たるべき双眸は、どういうわけかほんのりと赤い色味を帯びてさえいる。白い士官服の代わりに簡素なグレーの衣を纏い、雑嚢(ざつのう)と剣を下げたその姿は、どこから見てもルナンの少年兵士にしか見えなかった。
「……何だよ」 
 どこまでも真っ白なハルの視線に耐えかねてか、アースは思わず憮然とした声を上げた。
「昔、城に来た芸人が芝居で使った小道具が残っていたんだ。とりあえず、それらしく使ってはみたんだけど……その、やっぱり……変か?」
「……何のつもりだ?」
 極力抑揚を抑えてはいるが、たった一滴の油で火柱を吹き上げるであろう火種。
 そんな物を連想させる従兄弟の問いかけに、アースの喉がぐっと詰まる。
 極上の紅玉(ルビー)の瞳にじわじわと気圧され、まやかしの赤眼は決まり悪そうに下を向いた。
「……どうやって嗅ぎ付けたかは知らねぇが、コーザ(あいつ)もバカなことをする。てめぇの息子を使って、俺を説得(・・)させようなんぞ……くだらねぇ」
「ち、違う!父上は何も知らない!!俺が勝手に待ち伏せただけだ!!」
「……待ち伏せた?」
「……寝付けなかったんだよ」
 再び一気に温度を下げたハルの科白に、アースはますます首を縮めた。
「お前が退出したあの後、父上が王城の全ての門を閉めて……俺、学寮(へや)に帰れなくなったんだ。仕方ないから城の自室に戻ったはいいけど、久々過ぎて落ち着かないし、何だか嫌な予感はするし……。頭を冷やそうと思ってバルコニーに出たら……見えたんだ。裏から、お前がこっそり出て行こうとしてるのが」
 おずおずと紡がれる言の葉はしかし、思いのほかしっかりと筋道立っている。沈黙とともに己を見遣る従兄弟の視線を知ってか知らでか、アースはやはり落ち着かぬ体のまま、裏返った声を継いだ。
「お前がどうやって街を抜けるかは、何となく分かった。大通りを避けて西の街道へ出るのに、人目につかない抜け道はここぐらいしかない。だから……先回りして隠れてたんだ。その……どうしても、話がしたくて」
「話……?」
 胡乱げなハルの貌をおずおずと仰ぎながら、アースロックがごくりとその喉を鳴らす。
 冷たい夜気を震わせたのは、小さいがはっきりとした声だった。
「……ルナンに、行くんだろう?」
 簡潔というよりはあまりにも愚直な問いに、深紅の瞳がすらりとその硬度を増す。
 無言のまま刃を引いた黒髪の青年を見返し、アースは再び口を開いた。
「……お前のことだ。ひとりで行かせたら、きっと何か起こすに決まっている。これ以上の国際問題(いざこざ)なんて、もうまっぴらだ。父上にも迷惑がかかるし……危なくて放っておけない。それに……俺にとってもセレナは身内だ。見捨てることはできない」
 訥々と紡がれる声が大きく速くなるにつれ、アースの頬はどんどんと紅潮していく。緊張で強張った貌には、それでも確固たる決意の色が在った。
「だから、一緒に行く。そう決めて、ここに来た」
 冷えた夜風が堪えたのか、それともようやく言い切った安堵故か。微かな震えが走る両の拳をきつく握りながら、アースが深く息を吐く。
 しかし……その真剣な宣言に相対したのは、彼が予想もしない一言だった。

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