黎明を駆る者

第3章 常夜の国へ 5

 塵ひとつない通り路の両側には、しなやかな女体の如き曲線美を持つ黒い石柱が延々と連なっていた。
 いずれも完璧に磨き上げられたその表面は、金銀や(ぎょく)を使った精緻極まりない細工の海に埋もれ、その見事さを幽玄と浮かび上がらせている。おそらくは、一級の芸術家達の手によるものであろう、いずれ劣らぬ見事な仕事は高い天井、あるいは柱同様漆黒に光る壁面にも余すことなく施され、さながら(けん)を競い合う踊り子の群舞のよう。機能性に優れたフィルナ建築とは全く異なるその様式は、絢爛豪華な歌劇の舞台をそのまま切り取ったかのようにも見えた。
 幾つもの明かりが灯された薄暗い空間に、人の気配はない。
 深海のような静けさを切り裂いて進んでいくのは、規則正しく響く三組の足音のみ。そのうちのふたつをゆっくりと……それでいて必死に追いかけながら、セレナは陶器のような肌をただ強張らせていた。
 着慣れた若草色の服は、ここ……ルナン帝国の首都ランスの中心に位置する皇宮に到着してすぐに剥ぎ取られ、その温もりはもはや遠い思い出のよう。数回に及ぶ湯浴みと入念な化粧の後、代わりに着せつけられたのは、豪奢な刺繍で彩られた艶やかな絹の装束。背に流していた髪も高く結い上げられ、意匠を凝らした髪飾りで留められている。
 それら全ては深い紫色──父の生家であるヴァイナス家の家章(シンボルカラー)で統一されていた。
『……そんなに緊張しなくても大丈夫だよ』
 滑らかなルナン語の響きとともに、前を行く少年──ケレス・ヒルズがくすくすと嗤う。歩く度にひらひらと揺れる緑色の短衣が、闇に惑う熱帯魚のように宙を泳いだ。
『何も取って食おうってわけじゃないんだから。君の国でどう思われてるのかは知らないけれど、そんなに怖い人じゃないよ……()は』
 緑衣から伸びる細い手を振り振り紡がれるのは、やはり妙に軽い響きの科白で。
 三日前……ルスランとともに戦艦に降りたセレナを迎えてから今の今まで、この美少年の声はおどけたような無邪気さに満ちている。深淵の闇の如きこの場においても一切変わらぬその調子は、自ら名乗った‘悪戯者(ウェル・オ・ゾウル)’の通り名に相応しい道化ぶりと言えた。
 しかし……それはセレナにとって、どういうわけかひどく恐ろしく感じられた。
 あどけない笑顔の裏に仄見える、老獪な賢者の眼差し。
 狩人が獲物を狙うようなそれは、時折ではあるが、確実に自分を値踏みしている。そのことを──たとえ何とはなしにではあるにせよ──彼女は確かに感じ取っていた。
 再び響いた秘めやかな含み笑いに、冷たい絹地に包まれた肌が微かに軋む。緊張の度を増した乙女の心中をどう見通したのか、瞬きを繰り返した大きな緋眼が、揶揄めいた仕草でするりと細められた。
『ただ……別の意味の心配は、しておいた方がいいかもだけど。君みたいな可愛い女の子は、特に。あのひと、結構節操なしだからねぇ』
『……冗談はそのくらいにしておけ、ケレス』
 意味ありげな忍び笑いを制したのは、落ち着いたアルトだった。
『いきなり連れてこられてただでさえ参っているんだ。右も左も分からない子どもに、余計な心配をさせるな』
 呆れたように肩を竦めたのは、彼の隣を歩く妙齢の女性だった。
 鋼のような黒髪を無造作に流した肩を鎧うのは、赤紫色の甲冑と、同色の長い外套。しなやかな筋肉に覆われた丈高い体は、戦場を縦横無尽に駆ける戦乙女を連想させる。男のような言葉遣いと堂々とした立ち居振る舞いは、その精悍な雰囲気を余計に際立たせていた。
『大丈夫だって。あの(・・)ハラーレの子だよ?これくらいでへこむ程度のやわな心臓はしてないし……実際、とっても強いもの。何せ、ルスランの攻撃()を止めたっていうんだから』
『それとこれとは別問題だ。大体、そのルスランはどうした。案内役なら、奴の方がまだましだったろうに……』
『忙しいんだって』
 戦乙女が思わず零した呟きを拾ったのは、やはりあっけらかんとしたボーイソプラノだった。
『ランスに着くまでは一緒にいたけど、僕と彼女が着替えている間にもう出て行っちゃった。行き先は国境あたりだろうけど……最近は妙な輩が何かとお盛んなようだし、色々とお楽しみなんじゃない?若いっていいねぇ』
『……本当に好き放題言ってくれる。……セレナ、だったな。悪いが、こやつの言うことは気にしないでくれ』
 けらけらと笑うケレスを睨み、女性はセレナを振り返った。
『紹介が遅れたが……私はフィリックス。フィリックス・キクス。ようこそ、ルナンへ』
『皆は‘疾風の翼(サルヴァルキアス)’って呼んでいるよ。その名の通り、飛ぶのが一等上手いんだ。こう見えてすごく真面目でね。隠れてさぼろうものなら、ものすごい勢いで追っかけられて説教されちゃうから、気をつけて』
『……お前は、少し黙っていてくれ』
 傍らの少年にげんなりとした嘆息を遣り、フィリックスは再び穏やかなアルトを紡いだ。
『ともかく、よろしく頼む。ハラーレ……君の父上には昔、ケレス(こやつ)共々、色々と世話になった』
『……父のことをご存じなのですか?』
『……ああ』
 緊張を孕んだセレナの声に、フィリックスがふと紅い目を伏せる。端正に引き締まったその貌には、微かな……しかし恐ろしく複雑な翳が宿っていた。

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