黎明を駆る者

第3章 常夜の国へ 8

 その空間に一歩足を踏み入れた時、セレナは一瞬呼吸を忘れた。
 幾つもの篝火が焚かれた広間は、彼女の家などすっぽりと収まってしまう程広く、床面には磨き上げられた御影石が隙なく敷き詰められている。
 一面の漆黒の上に長く尾を引き流れるのは、天井から幾重にも垂れ落ちた深紅の絹布。
 その合間を縫うようにして置かれているのは……おそらく、香炉か。黒曜石で作られたと思しき双頭の龍の像からは、煙とともにねっとりとした香気が立ちのぼっている。
 しかし、乙女の気を奪ったのは、赤と黒の強烈な対比(コントラスト)でも、むせ返るような甘い薫りでもない。
 扉を開けた瞬間に心臓を貫いた、気配と称するにはあまりに鮮烈な存在感だった。
 気の弱い者ならば、無条件に跪いて許しを請いたくなるに違いない。そうでなくとも誰もが足を竦ませるであろう威圧感は、もはや‘妖気’と表現するに相応しいものだった。
 気づかぬうちに握り締めていた手が、まるで(おこり)にかかったようにかたかたと震え出す。
 かつて感じたことすらない、恐怖にも似た畏怖。
 セレナを一瞬のうちに捉えたそれ(・・)は、幔幕(まんまく)の向こう──緋色の玉座に座す、たったひとりの人物から発せられていた。
『……‘悪戯者(ウェル・オ・ゾウル)’が連れてきた小鳥とは、そなたの事か』
 紅を引いたような唇からよく通る声を響かせたのは、緩やかに波打つ黒髪を流した、細身の美丈夫だった。
 年の頃は、三十路を少し越えた程か。すらりと通った鼻筋と細く尖った顎が、その美貌にどこか酷薄な印象を与えている。
 しかし……何よりもセレナを釘付けにしたのは、優美に切れ上がったその両眼だった。
 父や兄、先程会った‘支配者’達……その誰よりも深く純粋な(あか)色の目に在ったのは、最高級のピジョン・ブラッドすら及ばぬ輝きと……そして深淵の闇よりも虚無的な(くら)さ。
 いっそ妖しさすら漂うその彩に、家を舐め尽くした紅蓮の色と……その中に立つ青年が己に向けた、無情なまでに空虚(うつろ)な眼差しが重なった。
『発言を許す。名は』
 再び響いたまろやかな声が含んでいたのは、艶やかな苦笑と……そしてかすかな揶揄。
 茫と見開いていた目を慌てて伏せたセレナは、青ざめた手でドレスを取った。
『……お初にお目にかかります、皇帝陛下。セレナ……ヴァイナスと申します』
 か細いがはっきりとした声とともに頭を垂れた乙女が、あくまで優雅に膝を折る。
 しかし……その可憐な仕草に眉ひとつ動かすことなく、玉座の主は肘掛けに乗せていた腕を無造作にもたげた。
 金糸銀糸を織り込んだ黒衣の袖がひらめき、緋色に塗られた長い爪がセレナを指す。
 刹那……その所作に誘われるかのように、セレナは我知らずふらりと立ち上がっていた。
 傀儡(くぐつ)の如くぎごちなく進み出た(からだ)は真っ直ぐに男の膝下へと進み、そのまま糸の切れた人形のように跪く。
 思わず呆然たる表情を浮かべた乙女の顎を、白く冷たい指先がすくった。
『……情の(こわ)そうな、懐かしき目よ。血は争えぬな』
 驚きに瞠目した翠緑玉(エメラルド)を覗き、帝国を統べる男は艶やかに嗤った。
『そなたの父は技を以って(わたし)を悦ばせたが……そなたはどうか。死神(グライヴァ)の娘よ』
『…………!』
 至近距離で囁かれた言の葉の羅列は、拡散しかけていた乙女の意識を一気に浮上させた。
 ただ茫と見開かれていた眼が、徐々に光を取り戻していく。
 震えを帯びながらもゆっくりと上がったセレナの視線に気づいたのか、炎を溶かした赫い瞳が、面白そうに瞬きした。
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