黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 1

西王歴六百二十五年
七の月 五日 晴天

 西端の町・リ=シュで騎獣を乗り換え‘入らずの森’に入り三日。
 我が国と彼の国を隔てる、昼なお暗いこの樹海には、「四季」というものがない。春夏秋冬のありとあらゆる植生が混ざり合った様はそれこそ混沌そのもので、図鑑でも見たことがない奇妙な(むしろ「見るからに危険な」というべきか……)植物も多い。足元は分厚い腐葉土や苔に覆われていてとにかく歩き辛く、得体の知れない凶暴な獣や魔物も出没する。
 まさに「入らず」の名の通り……聞きしに勝る危険な場所だ。
 先程も、太い蔦が絡まったような化け物や、魚と鳥が合体したような生き物が襲いかかってきて、死ぬかと思った。
 ハルが倒さなかったら、危うく餌になるところだった。
 死骸は非常に気味が悪かったが、ハル曰く「鳥魚の方は、火を通せば食える」とのこと。かなり念入りに炙ったところ、成る程なかなかいけた……ような気がする(少なくとも、昨日食べた変な色の果物よりは百倍ましだ)。
 聞けば、我が従兄弟はフィルナに来る前、二年ほど家族で森に住んでいたらしい。
 ……セシリア叔母様はともかく、セレナもあんな生き物を倒して食べたりしていたのだろうか。
 人は、意外と見かけによらないのかもしれない。


七の月 八日 曇天

 先日の騒ぎのせいか、森の上空は監視が厳しく、昼間はとても空路を使える状態ではない。人目につきにくい夜のうちにこっそりと低空を飛行し、昼間は森に降りて休みながら徒歩で進むということを繰り返す。昨夜、空から「永遠の源泉(エーリ)」を越えたことを確認したから、そろそろルナン領に入った頃だろう。
 地図によると、ルナンは領主である貴族の呪力(じゅりょく)属性により風領土(バリン)火領土(グラウダ)水領土(イアリン)地領土(ドルガ)と呼ばれる大きな州(おそらく、フィルナの‘国’に相当するものだろう)に分かれていて、その四州に守られるような形で帝都ランスが置かれているようだ。
 今自分達がいるのは、どうやら火領土の東端辺りらしい。森を抜けたら火領土から風領土に入り、東上しながら帝都に近づくことになるだろう。
 その時に備え、休憩中ハルにルナン語を習うが、とにかく発音が難しい(覚えているだけで十回は舌を噛み、多分その倍以上は失笑を買ったような気がする)。
 ついには「もういいから黙っていろ」と匙を投げられた。
 せめて聞けるようにはなっておきたいが……それもあまり自信がない。


「……何書いてるんだ?」
 不意に背後から掛けられた声に、ペンを走らせていた手がはたと止まる。
 続く動作で振り返った先には、水でも浴びてきたのか、濡れた髪から滴る雫もそのまま、此方の手元を覗き込む従兄弟の姿があった。
「……日記かよ。こんなとこまで来て」
「……日課なんだ。書かなきゃ落ち着かない」
 ハルの呆れたような物言いに唇を尖らせ、アースは手元の冊子をぱたりと閉じた。
「何かごちゃごちゃ持ってきてやがると思ったら。よくやるぜ」
「……己を省み、経験を次に活かすためには有益な嗜みだ。今日を振り返ることで、明日の道標になることが見つかるかもしれないだろう?」
「……それはご立派なことで。ついでに、最後のページに遺書でも書いておけよ。届けるくらいはしてやるぞ」
 あくまで真面目なアースの科白に皮肉げな一瞥を返し、ハルは手近な岩にすとんと腰を下ろした。そのままわしわしと髪を拭き始めた彼の服は所々汚れ、長靴(ちょうか)の踵はすっかり擦り切れている。日記を手に座り込んでいるアースもまた、似たような有様だった。
 元来、大地の起伏が複雑なエリアではあるが、入らずの森はことのほかそれが激しい。茂る草木で足元すら見えないような地面には、至るところに目につきにくい断崖絶壁や深い急流が待ち構えている。当然、人の形跡など全く見当たらず、獣道すらほぼないに等しい。例え頑強な男の足であっても、歩いて進むのはまさに至難の技と言えた。
 結果、少年の域を少し出ただけの青年ふたりがルナンへの距離を詰めることができるのは、人目につかずに空路が使える夜間のみ。
 昼は体を休めつつ、申し訳程度に歩を進めることしかできなかった。
「茶化すなよ。常に内省を忘れるな、それが上に立つ者の務めだ……先日の御前試合でも、父上はそうおっしゃっていた。お前だって、上に立つ者だろう。そう教わらなかったのか?」
 思わず語気を強めたアースをちらりと見やり、ハルは軽く肩を竦めてみせた。
「嗜みを教われるほど、平穏な毎日でもなかったんでね」
「…………」
 淡々と紡がれた一言に、アースの頬がふと強張る。
 その気まずそうな沈黙に気づいたのか、従兄弟からあえて視線を外したまま、青年はふと紅い目を細めた。
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