黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 2

「両国……特にルナンの追っ手が相当にしつこかったせいで、森に落ち着くまでは旅ばかりだったからな。教わった事といえば、武術と呪法(じゅほう)……あと飛び方か。それこそ、明日とやらを見失う程しごかれたぜ。俺もセレナもな」
「セ、セレナも!?何で!?」
「前に言っただろう。ルナン貴族は全員(・・)が戦闘員で、呪法士(じゅほうし)だって。男も女も関係ねぇよ」
 唖然たる従兄弟の科白に相槌を打ちつつ、ハルはげんなりとした面持ちで嘆息した。
「……‘ルナンの死神’が、ほぼ手加減なしだ。当然、ふたりして毎回ズタボロにされたぜ。飛べねぇうちから崖から投げ落とされるわ、高位呪法で吹っ飛ばされるわ、あちこちぶった斬られかけるわ……。むしろ、よくくたばらなかったもんだぜ」
「……滅茶苦茶だな」
 思わずそう漏らしたアースロックが若干……否、相当に引きつった表情で固まる。
 その様子を知ってか知らでか、生乾きの髪を適当に流しながら、ハルは低く喉を鳴らした。
「実際、何度かは冗談抜きで死にかけたからな。本当に滅茶苦茶だったが……父上の気持ちも、理解できなくはない。今になって思えばな」
「…………?」
「……分かって、いたんだろうよ」
 不思議そうに眉を寄せた従兄弟の無言の問いかけに、ハルはするりと瞳を絞った。
「遅かれ早かれ、自分はいずれルナンに連れ戻されるってこと。その時、俺達とは別れることになるってこと。そうなったら多分……もう二度と会えないってことも」
 あくまで平明に語られる科白には、寂寥とも追憶とも取れぬ一片の翳が在る。
 その闇さをまともに見ることも出来ずに、アースはただ目を伏せるしかなかった。
「だから、俺達を鍛えた。自分の身は勿論……本当に大切なものを、自分の力で守り切るために」
 不意に言葉をぷつりと切り、ハルはおもむろにその手元……正確には煌めく宝玉を宿した美しい手甲(ガントレット)へと視線を落とした。
 ヴァイナスの家に伝わる家宝というこの武具が、己が手へと渡って五年。永の別れとともに手に入れたそれには、よくよく見れば大小様々な傷が穿たれている。そのうちの幾つかは、ハル自身にも覚えのあるものだった。
 疾風のように繰り出される重く鋭い一撃を、あるいは冬の嵐の如く苛烈な呪法を受けた感触が、今更ながら蘇る。
 反射的に慄いた腕を押さえ、ハルは思わず唇を噛んだ。
 ──君は、何も出来ない。どんな犠牲を払っても、何もみとめられない。
 不意に脳裡を過ったのは、己と同じ色彩に彩られた少年のあどけない貌。
 その唇が紡いだ刃物のような嘲弄は、ハルの心を燻すように苛み、そして否応なしに軋ませる。
 己が手に残されたのは、父が託した切望を確かに受けたという証か。それとも、つかみ損ねた残像が見せた、無様なただの幻想か。
 古傷のひとつひとつを追って見つめた紅の目に、深く虚ろな不可視の膜が懸かった。
「……俺は、守れなかったけどな」
 ぼそりと漏れた呟きを置き去りにして、森は再び深い静寂の世界へと還る。
 ほんのわずかな、それでいて永遠とも思えるような間を経た後……不意に沈黙を破ったのは、ハルの目の前にそっと置かれた小さな包みだった。
 思わず上がった紅い視線が捉えたのは、綺麗に剥かれ、切り分けられ、己の掌ほどの大きさの葉に乗せられた蒼い果実。猛毒を含む植物が数多く自生するこの森の中、黄緑色の斑点が無数に浮いた林檎のようなそれは、比較的安全に食せる貴重な非常食のひとつだった。
「……自惚れるなよ」
 訝しげに己を見遣った従兄弟の様子を知ってか知らでか……利き手に握ったナイフをしまいながら、アースロックはすっくりと立ち上がった。
「セレナだって、お前と同じ訓練に耐えたんだ。自分の身は、自分で守れるに決まっている。お前が守るべきは、彼女じゃなく……お前自身の誇りだろう」
 あくまで淡白を装って紡がれた科白は、冷え冷えとした森の空気を弾き、真っ直ぐハルの耳を打つ。
 一瞬ぐっと鼻白んだハルに、あくまで背中を向けたまま、アースは再び言の葉を継いだ。
「彼女をみすみす行かせた自分が許せないのなら、うじうじ考えている暇なんてない。やるべき事をやって……期待に応えてみせろよ。お前なら、それくらい出来るだろう」
 よどみない口調で発せられたのは、糾弾でも激励でもなく、確固たる断言。
 根拠のない自信にも似たその冷静さは、沸騰しかけたハルの血を驚く程しなやかに抑え……そして、追憶に沈みかけた彼の心を一気に現世へ引き戻した。
 呆けたように沈黙したハルの反応を知ってか知らでか、日記を懐にしまったアースロックが、足下に置いた荷をごそごそと漁り出す。
 染められた短い髪の間から覗く耳は、それと分かる程に赤みを帯びていた。
「……それ食べたら出発するぞ。日暮れ前に、少しでも距離を詰めておいた方がいいだろう?」
「…………」
 早口でまくし立てるアースの背中に一瞥を投げながら、ハルはふと天を仰いだ。
 鋭く切れたその瞳がほんの僅かに緩んだのは、果たして木漏れ日の悪戯のせいか。
 宙に浮いた視線をゆっくりと戻しながら、ハルは葉に盛られた毒々しい色の果実を手に取り、そのまま口に放り込んだ。
「……まずい」
「仕方ないだろう。それしかないんだから」
 思わず口を尖らせたアースに気怠げな視線をよこし、ハルがひょこりと肩を竦める。
 深く輝く紅色の瞳に……もう先程の翳はなかった。
「……相変わらず説教臭ぇっての。それより、とっとと先に行こうぜ……従兄弟殿」



 微かな葉擦れと鳥のさえずりとが、昼なお暗く深い森をかすかに揺らす。
 深い谷と谷の間にわずかに拓けた平地の中央に、()は黙然と立ち尽くしていた。
 木漏れ日に照らされた長身は黒一色の軍装で鎧われ、まさに一分の隙もない。
 ピジョン・ブラッドよりなお(あか)い瞳は剃刀の如く鋭く、その足元をただじっと見つめている。
 厚い苔と丈の短い草に覆われた、何の変哲もない地面。だが、彼の眼はそこに残された痕跡を確かに捉えていた。
 ごく最近付けられた、複数の……そしておそらくは男の足跡。
 近くには、ごくごく薄いものの、蹄鉄を打った騎獣のものと思しき蹄の跡も見て取れる。
『…………』
 黒い皮手袋に包まれた左手が、不意にゆらりと宙を掻く。
 数瞬の後……上を向いて差し出された掌の上には、灰色の尾羽を持った美しい小鳥が幻出していた。
『……日没とともに狩り(・・)を開始する。その旨、伝えよ』
 冷ややかな言を背負って羽ばたいた小さな影は虚空へと飛び出し、そのまま陽炎のように溶けて消える。
 その跡を追うようにして空を仰いた瞳の中で……寄り添う双生児(ふたご)の太陽は鮮やかな茜色を纏い、西の地平に身を沈めようとしていた。
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