黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 3

「!?」
 突然耳をつんざいた悲鳴めいた響きに、アースロックは思わず肩を強張らせた。
 咄嗟に振り向いた先では、極彩色の翼を閃かせた怪鳥が巨大な嘴を開けつつ、まさに雄々しく飛び立とうとしている。
 それを見遣って思わず安堵の息をついた従兄弟に、ハルはふと訝しげな視線を向けた。
「どうかしたのか?」
「……いや」
 否定を口にしながらも煮え切らぬ返答をよこしたアースの態度に、紅い瞳がするりと細められる。木に結わえた騎獣の手綱を解きながら、ハルはつっけんどんに言の葉を紡いだ。
「……何かあるならとっとと言えよ。今夜中には森を抜けて、本格的にルナン国内に入る。次に空へ出たら、もう後には戻れねぇぞ」
 低い囁きに呼応するかのように、冷たくなってきた風がざわりと周囲の木々を揺らす。日没を控えた森は、既に鬱蒼とした薄闇に覆われていた。
 ふたりが佇んでいるのは比較的拓けた平地だが、それでも視界は暗く落ち込み始めている。
 唯一光を放つのは、たゆたう沼に映り込んだ双児の月のみ。
 強風に合わせて揺れる蒼白い像に目を落としながら、アースはぽつりと小さな呟きを漏らした。
「……その、何て言うか……。上手く説明できないけど、何だか嫌な感じがするんだ」
「……嫌な感じ、ね」
 苦いものを呑んだような科白に応じたのは、一片の皮肉を含んだ眼差しだった。
「……怖気づくなら、もっと早くに怖気づけよ。今からでも遅くない。とっとと帰れ」
「ち、違う!!怖いとか、そうことじゃなくて……とにかく、落ち着かないんだよ!!」
 弁解めいた声を上げながら、アースは急きこむようにその顔を上げた。
「胸騒ぎ、っていうのか?何か大事が起きる前、時々こんな感じがするんだよ。お前が出奔しようとした時も、妙にそわそわして落ち着かなかった。だから……今回も、何か起こるんじゃないかと思って」
「…………」
 色の冴えない従兄弟の面は、ひと言話すごとに不安の翳を増していくようにも見える。
 その様子を視界の片隅に捉え、ハルは思わず呆れたように肩を竦めた。
「……ああだこうだ言っても仕方ねぇだろう。何か起きそうなら、起きてから何とかすればいい。ともかく、俺は行くぜ」
「お、おい!ちょっと待てって!!」
 翻しかけた肩をつかんだ頼りない手に、ハルの呆れはついに苛立ちへと変わった。
「一体何なんだ!?そんなに嫌なら、ひとりで引き返せばいいだろう!うじうじと悩んで、人の邪魔をするな!!」
「さっきから、寒気が全くおさまらない……むしろ、どんどんひどくなってきているんだ!きっと……いや、絶対に何かが起こる!!とにかく、今は動かない方がいい!!」
 縋りつかんばかりにまくしたてるアースの顔は、明らかに平静さを失いかけている。その狼狽ぶりはハルを訝らせながらも、疲労と焦りでくすぶった怒りに油を注ぐこととなった。
「お前の勘なぞ知るか!離せ!離さねぇなら、腕ごとぶち斬るぞ!!」
「嫌だ!!」
 常ならぬ従兄弟の強硬な態度に、紅い瞳がぎらりと剣呑な光を帯びる。
 沸点に達しつつある憤懣(ふんまん)をもはや抑えようともせず、ハルはきつく拳を握り締めた。
「いい加減に……!?」
 激昂の声にわずかに懸かったのは、短くも鋭い風切り音。
 葉擦れの中から飛び出してきた閃光が突如空気を引き裂いたのは、ハルがアースを押し倒すようにしてその場に伏せたのとほとんど同時だった。
 仰向けに転げたアースの鼻先を、数条の光が掠めて過ぎる。
 蒼い軌跡を描いて飛んだそれは、ふたりの丁度真後ろに在った樹木を直撃し……次の瞬間、木っ端微塵に爆砕させた。
「な……!?」
 驚愕に凍りつくアースを残して跳ね起きたハルが、現出させた得物を素早く横に払う。
 鋭く輝く大鎌の刃が、続いて飛来した光の矢を甲高い音と共に打ち払った。
『……上手く(かわ)したものだ』
 ようやく立ち上がったアースを押し退けるようにして下がらせたハルの前で、(あか)い光がちかりと瞬く。
 数瞬の後……樹の間の暗闇から溶け出るかの如く現われたのは、長身を漆黒の戦装束に包んだ若い男だった。
 削いだような頬の線と切れ上がった瞳は、整った貌にひどく冷たい印象を与えている。後ろで括った長い髪が、夜空を刷く穂先のようにふわとなびいた。
『良い勘をしている』
『……誰だ』
 よく通るテノールが編み出したのは、美しくも複雑な韻を持ったルナン語の響き。
 血色の瞳に、射干玉(ぬばたま)の黒髪──己と同じ色味に彩られた男を真っ直ぐに見据え、ハルは素早く得物を構えた。
『……それを問うべきは、貴公ではなく私の方だが』
 即座に完璧な戦闘態勢に入ったハルの姿に、炎を溶かし込んだような瞳がするりと細められる。
 あくまで自然な立ち姿を保ったまま、男は静かに口を開いた。
『……ここは、我が主が統べる地だ。許可なく立ち入ることは許されていない。しかし、近頃は不埒(ふらち)な企てを抱いて分け入る(やから)が後を絶たぬ。憂えた主は、私に命令を授けた。この地を侵した者は、全て捕らえよと』
『……そいつは、知らなかったぜ』
 端然と紡がれる科白には、その気配同様、まさに一分の隙もない。
 さりげなく……しかし確かな照準を定めて獲物を見つめる鷲のような視線を浴びながら、ハルは背に不快な冷や汗が流れ落ちるのを感じていた。
『……貴公らが何者か、何を以ってこの地を荒らしたかは、私の預かり知る所ではない。全ての弁明は、我が君の御前でするといい。彼の御方は寛容であらせられる。貴公らの声にも、耳をお貸しくださるだろう』
『……悪いが、こっちにも急ぎの事情があるんでね』
 無言の威圧を牽制するかのように顔を上げ、ハルはつとめて平静な声で科白を紡いだ。
『勝手に踏み入った詫びは後で入れさせてもらう。だから……今はそこをどいてくれ』
『……聞けぬ、と言ったら?』
『……言うまでもねぇ』
 足を引いて身体をわずかに沈めながら、ハルはぎらりと瞳を絞った。
『強行突破させてもらうぜ』
 厚い苔に覆われた地面を踏みしめ、ハルがゆらりと首をもたげる。
 その動作に応じてかざされた男の腕に従うが如く、大気がざわりと蠢動する。
 漆黒の手甲に包まれた手が振り下ろされ、長靴(ちょうか)の踵が地面を蹴った……その瞬間。
 黒い森は、密やかな嵐に包まれた。

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