黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 6

 はたり、はたりと音を連れて垂れ落ちたのは、不気味なまでに紅い色彩だった。
 黒い刃を伝って落ちるその雫は、まるで脈打つようなリズムを刻みながら、アースが纏う灰色の衣をゆるゆると濡らしていく。
 その根源たるしなやかな肉身はしかし、断じて彼のものではない。
 大きな瞳を限界まで見開いたまま……アースロックは、己に覆いかぶさるようにして身を投げだした従兄弟と、その腹部から突き出た血染めの太刀を見つめていた。
「あ……あ…………!!」
 言葉にもならない声を上げたアースの肩を掴んだまま、ハルがふらりと顔を上げる。
 引きつるように歪んだ面の中、流れる血潮と同じ色の瞳は、それでも鋭く輝いていた。
「…………ろ」
 噛み締められた唇の端から零れたのは、半ば掠れた言の葉と……そして鮮やかな命の色。
 未だ自失し凍りついた従兄弟を叱咤するように睨みつけながら、ハルは血で汚れた唇をかすかに戦慄(わなな)かせた。
「逃……げ…………!!」
 必死の響きで紡がれた科白はしかし、鋼が肉を()む音に呆気なく遮られた。
 背から腹腔を串刺しにした刃を一息に抜かれ、青年の身体が弓なりにしなる。血の帯を引きながら翻った刀は、瞬きする間も空けずに疾り……次の瞬間、ハルの背を容赦なく袈裟懸けに斬り下ろしていた。
「…………!!」
 声にならない絶叫に、迸る血飛沫が重なる。
 一瞬大きく見開かれた紅玉は、刹那のうちに宙を彷徨い……そしてふつりと色を失った。 
 糸の切れた人形の如く傾いだ身体は、そのまま横ざまに倒れるように(くずお)れる。
 微かに震えたその身から泉のように溢れ出た(あか)が、蒼然たる霜と深い緑に覆われた大地を汚した。
『……案ずる必要はない。相当の呪力の持ち主だ。この程度で死にはすまい』
 血塗れの刀を提げた漆黒の男が、相も変らず淡々とした声音で呟く。
 しかし……アースロックの耳に、その科白は全くと言っていい程聞こえていなかった。
 ぴくりとも動かず倒れ伏した身体に、我知れず震え始めた手を伸ばす。
 色が抜けて蒼白になった首筋から、無惨に開いた傷口から赤い色を噴き続ける肩と背へ。
 常ならば鋭い眼光とともに払い除けられるはずの指先を浸した感触に……アースロックは、人の血が思いのほか温かいものだということを初めて知った。
『……(ほう)けたか』
 地に投げ出された青年の横で座り込んだアースを、一片の侮蔑を含んだ冷ややかな視線が射抜く。
 依然深く伏せられた彼の横顔を見つめたまま、男は軽く刃を振って血糊を払った。
 続く動作で振り上げられた切っ先が、気が抜けたように放り出されたアースの脚を真っ直ぐに狙う。
 色を失った面がようやく上がったのは……アキレス腱を正確に捉えた漆黒の刃が風を切って振り下ろされたのと、ほとんど同時だった。
「…………ッ!!」
 甲高い絶叫とともに夜気を引き裂いたのは、墨色に慣れた目を眩ませるほどの閃光。
 空しく空を切った一撃もそのままに、男の眼が大きく見開かれる。
 ほんの一瞬で大きく開いた間の向こう……左の腕にハルを抱きかかえたままゆらりと身を起こしたアースの背には、朧に揺らめく美しい翼が出来していた。
『…………‘銀翼(ウィーラ)’……!?』
 初めて驚愕に絞られた赫い虹彩を、恐怖と憎悪に彩られた大きな瞳が真っ直ぐに見返す。
 染料が溶けた朱涙の下から現れたのは、真昼の森より鮮やかな翠緑玉(エメラルド)の輝き。
 思わず表情を凍らせた男の一瞬の隙を、アースは見逃さなかった。
 仄白く輝く翼を一気に広げ、男の脇を一飛びに駆け抜ける。
 ようやく醒めた赫い瞳がはっと見開かれた時……銀の光は重く陰った森の中へと、彗星のように吸い込まれていた。



 際立った美点もない代わりに、途方もないうつけでもない。
 賢君コーザの子にしては、きわめて平凡な王子──それが自分の評価だということを、アースロックは幼い頃からよく理解していた。
 己が生の始まりと同時に世を去った母は、遥か遠い思い出の彼方。
 フィルナの命運を担い日々政務を執る父は多忙を極め、己などにかけずる暇はない。
 父に従う周囲の者達も、何をやらせても十人並みの王子のことなど、気に留めてもいなかったろう。
 すぐ傍に強烈な輩がいれば、尚更のこと。
 心技体ともに頭抜けて優秀だがきわめて不遜な彼の存在は、アースにとってみれば常に悩みの種であり……一方、ある意味ではひどく醒めた憧憬の対象でもあった。
 いかなる敵意にさらされようとも他者を圧倒し輝く才気と、それを支える強固な意志。
 己が持たざるものを背負い、遥かな先を往くその背を、アースはいつも諦めの混ざった目で追ってきた。
 自分は彼のようにはなれない。
 その横に並ぶことも、ましてや追い越すことなど出来るわけがない。
 故に、アースロックは考えたこともなかった。
 常に傲岸に伸ばされたその背を、己が支えることになるということなど。

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