黎明を駆る者

第4章 森海の攻防 8

 遥か下方で響いた水音を聞きながら、()は音もなく崖の縁へと降りた。
 ぽっかりと広がる深い闇を見下ろした貌が、不意に空を灼いた閃耀(せんよう)にくっきりと浮かび上がる。
 隙なく組み上げていた偽翼(ぎよく)の術を解除しながら、黒衣の男──ルスランは、相も変わらぬ無表情で頭上を仰いだ。
 先刻の爆発音を聞きつけたのだろう。喧しい駆動音とともに出現した数艇の浮遊船が、照明弾を打ち上げながらしきりに警笛を鳴らしている。
 それなりに統制のとれた、しかし角度を変えれば場違いな空騒ぎのようにも見えるその光景をひとしきり眺め遣った後、ルスランは初めて己の身を省みた。
 きっちりと着込んでいた戦装束は血と泥に塗れ、もはや見る影もない。その無残な有様の中……ずたずたに裂けた右袖の内で光る銀の腕輪は、不気味な程静かに照り映えていた。
 純度の高い深紅の宝玉(ピジョン・ブラッド)と精緻な細工に埋め尽くされた表面には、先程の激しい攻防の片鱗どころか、僅かな(きず)のひとつもない。
 蒼く冷たい月光にさらされた白銀(しろがね)をひたと見つめた(あか)い瞳に、こころなしかかすかな安堵の色が過った。
 再度響いた警笛が、ようやく訪れかけた森の夜を甲高く揺さぶる。
 その音に微かに眉をはね上げ、ルスランはもう一度だけ崖下を見遣った。
 陸との境目も朧な黒一色の淵は、幽玄と呼ぶにはいささか荒い景観の中に塗り込められたかの如く溶け込んでいる。
 冷然たる貌をいくらも動かさぬまま、黒衣の男は固い踵で岩頭を蹴った。
 刹那、その背に閃いたのは、重く沈んだ錆びのように濁った紅色の光。
 偽の翼を再び纏ったしなやかな身体は、真っ直ぐ天へと昇ってゆく。
 ぽっかりと浮かぶ双月は、相も変らぬ嫋々とした光で、その姿を照らしていた。
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