黎明を駆る者

第5章 光の雨の降る夜に 2

『レアルの外れには、恐ろしい魔術を編む、翼なき魔女がいる──水術や風術だけじゃなく、その合成術まで研究しているんだってね。しかも、ほとんど全部独学で。その年で大したものだよ』
『何故、そんなことを……』
『知る方法なんて、いくらでもあるさ』
 思わず零れた呟き声に、ケレスは再び薄い肩を竦めた。
『特に、休戦の意味を勘違いしている人が多ければ、尚更ね。もやもやした平穏の裏で熾烈な腹の探り合いが繰り広げられているなんて、夢にも思っていないのだもの。ちょっと気を許せば、ペラペラ喋ってくれるよ。相手が誰なのか、疑いもせずにね』
 整然と並ぶ白い駒のひとつを飄々と弄びながら、ケレスは詠うように言の葉を継いだ。
『おかげで、なかなか面白い話が聞けたよ。そのなり(・・)だから割合安楽に過ごしているかと思ったけど……君も案外苦労してきたんだねぇ。優秀すぎるのも考え物だ。危険物扱いされた上に王城(おしろ)を追いだされて、田舎のあばら屋に押し込められちゃうなんて。可哀想に』
『城を出たのは、私の意志です。これ以上……』
『これ以上、隙を与えるわけにはいかないから?』
 戸惑いながらもようやく発した言の葉は、(ひょう)げた苦笑にあっさりと絡め取られた。
『コーザ王は、抜け目のない人物らしいからねぇ。下手に弱みを握られたら、一体何をされることやら。僕が君でも、荷物をまとめて引っ越すさ。利用されるなんて、真っ平御免だもの』
『違います、陛下は、そんな……』
『違わないよ』
 セレナの言葉を言下に否定し、ケレスはするりと瞳を絞った。
フィルナ(むこう)にとってみれば、ルナン貴族(ぼくたち)は存在自体が脅威そのものなんだよ?町どころか国ひとつを跡形もなく吹き飛ばすような呪法士なんて、そうそういるものじゃない。そんな呪力(ちから)の持ち主が、ごく身近にふたりもいたら……君は、どうする?』
 形の良い爪が、磨き抜かれた水晶をぱちりと弾く。からからと音を立てて転がる駒の軌跡を追いかけながら、少年は艶然と一笑した。
『片や風を思いのままに操り、偽翼もなしに空を翔ける戦士。片や複数の属性を重ね持ち、自由自在に使いこなす術士。それも、ともにあの‘ルナンの死神(グライヴァ・リ・ルナン)’の薫陶を受けた、直系の子孫ときている。そんなとびきり性能のいい人間兵器(・・・・)を……君の母上の国は、どう使おうとするだろうね』
 眼前に静止した白い駒をみとめながらも、乙女は微動だにせず口をつぐんだまま。その眼差しを温度のない紅眼で追ったケレスの声は、相も変わらず飄々たる気色を含んでいた。
『まともな為政者なら、誰だって答えは同じさ。たとえ、賢王と呼ばれる人格者でもね。なまじ美辞麗句で飾り立てられている分、余計にえげつない事をするかもしれないよ』
『……ルナンの統治者は、そうではないと?』
 嫌味にもならない棘を冷ややかに纏い、セレナの声がわずかに下がる。
 その言葉に小首を傾げ、ケレスは美しい卓に身を乗り出すようにして頬杖をついた。
『……君は、どう思う?』
『え……?』
 まさかの切り返しに言葉を詰まらせた少女を前に、絵に描いたような微笑みが深まる。
 そのあどけない表情の中、赤く煌めく双眸に懸かっていたのは、朧に揺れる薄衣のように不確かな翳だった。
『あのひとが何を考えているのか、何を思って政務を執っているのか。その心の裡を知っている人間なんて、この世界エリアのどこにもいない。皆、圧倒的なその力に、半ば盲目的に服従しているにすぎないのさ。民も、貴族も……そう、‘支配者’さえもね』
 淡々と……しかし滴るような皮肉を内包して紡がれる少年の言葉は、冷たい舌で獲物を誘う蛇のそれにも似た冷徹さでひたとセレナの耳を嬲った。
『勿論、僕も例外じゃない。百年以上をともに過ごしてなお、あのひとの真意は分からないままさ。そう……どうしても、分からないんだよ』
 恐ろしく平明なボーイソプラノは瞬きする間に形容(かたち)を変え、乙女の脳裡に鮮やかな像を結ぶ。
 血よりも濃い(あか)の軌跡が描き出したのは、ただ一度だけ相対した美しい帝の姿と……艶やかな眼差しに秘された、虚無の(ほむら)
 思い出すだけで足を竦ませるようなその(くら)さは、乙女の肌を我知らずざわりと粟立てていた。
『確かに、大したものだと思うよ。‘魔帝(まてい)’と渾名される程の強硬策を打ち立てて、それまでフィルナに押されっぱなしだった戦況をものの見事にひっくり返したんだもの。誰もがその力を崇め、服従せずにはいられない、唯一無二の治天の君。でも……人間ってさ、意外と面倒な生き物なんだよね』
『……いかに強いしるべでも、行き先が分からなければ従えぬと?』
『そういう事』
 察しがよくて何より──調子よくセレナを持ち上げ、ケレスは再び不透明な笑みを浮かべてみせた。
『なまじっか頭が回ると、何かと理由ってものを知りたくなるらしい。最近では、わらわらと集まって、騒ぐ輩も多いのさ。困ったものだけど……まあ、分からないでもないね。理解できないっていうのは、なかなかに辛いことだから、さ』
 こころなしか大仰に肩を竦め、少年はため息とともに微かに嗤う。
 その仕草に、先程わずかに仄めいた、虚ろな毒はどこにもない。くるくると動く大きな眼には、相も変わらぬ悪戯っぽい光と揶揄が面白そうに揺らめくのみ。いっそ先刻の気色が嘘にも思えるようなその変貌は、セレナの心にごく微妙な違和感と……そして何とも言えぬ居心地の悪さを植え付けた。
『でも、まぁ……心配することはないと思うよ。いくらあのひとが何を考えているのか分からないとはいえ、君を今すぐどうこうしようとは思ってないと思うしね』
『少なくとも、今のところは──ということですか』
『そ』
 強張ったセレナの科白に事もなげな返答をよこし、ケレスはひょこりと立ち上がった。
『さて、と。すっかり長居しちゃったけど……そろそろおいとまさせてもらうよ。こう見えて、僕も結構やることがあってさ。本当、人使い荒くて嫌になっちゃう』
 おどけた仕草で舌を出しつつ、ケレスは凍ったままのセレナを見遣った。
『明日、また来るよ。何か足りないものがあったらあの私民──そう、ラチェクだ。彼女に言っておいてよ。あの子の今の主人は君だから、気軽に使うといい。服でも本でも、何でも届けて……?』
 不意に途切れた滑らかな言葉に、セレナが思わず顔を上げた、その刹那。
 突如として部屋を揺るがしたのは、まるで砲弾でも打ち込まれたかの如き、強烈な衝撃だった。
 未だびりびりと壁を這う振動に被さるのは、何やら人が言い争うような悲鳴と荒々しい足音。それが、どうやら男と女のものらしいとようやく判じられた時……部屋の調度に負けず劣らず美しい彫刻が施された扉は、けたたましい音とともに大きく開け放たれていた。
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