黎明を駆る者

第5章 光の雨の降る夜に 3

『ここにいたのか』
 泥塗れの軍靴の踵が、(ひび)ひとつない大理石の床を無遠慮に蹂躙する。
 ずたずたに引き裂けた黒装束を纏い、突然現れた背高い男──ルスランを、セレナはただ唖然とした面持ちで見上げるほかなかった。
『……ラチェク』
 薄い唇から言葉が滑り落ちるよりも早く、乱れた足音が部屋の中へと駆け込んで来る。
 肩で息をしながら素早く控えた小柄な姿に一瞥もくれず、少年は再び静かに口を開いた。
『……これは、どういうことだい?』
『も……申し訳ございませんっ!!』
 いっそ冷ややかにも聞こえる声に平身低頭したのは、林檎のような頬を上気させた十二、三歳の少女。
 黒地に赤の縫い取りが入った私民服の裾を払い、ラチェクと呼ばれた少女はせき込むように言葉を連ねた。
『さ、さきほど急にいらして、とにかく通せ、鍵を開けろと。取り込み中とお断りしたのに、と……扉を……』
『火急の用故、やむなく破壊した。許せ』
『……何なの、そのザマ』
 芝居がかった嘆息が、必死の訴えと冷やかな弁明とをまとめて躱す。
 少なからぬ傷と塵埃に塗れた黒衣の男を、呆れたようなケレスの眼差しがようやく射た。
『‘エヴァライムズ’に反撃くらうなんて、どういう失態(ポカ)やらかしたのさ』
『彼奴らではない』
 皮肉交じりの少年の言をすぱりと断ち切り、ルスランは淡々と科白を紡いだ。
『昨晩、‘森’を荒らした侵入者ふたりと交戦した。ともに十代後半の男で、呪法士だ』
『……よくあるパターンじゃない。暑苦しい理想とやらに燃える世間知らずのお坊ちゃまが、しょぼい秘密基地でも作ってたんじゃないの?』
『一方は風使い、もう一方は水術士。前者は上級貴族並みの呪力(ちから)と‘生ける戎具(ヘルファリアム)’の、後者は‘白き女神(シュリンガ)’の翼──‘銀翼(ウィーラ)’と、翠の瞳の持ち主だ』
『……何だって?』
 嘲弄のような微笑みを残したまま、少年の愛らしい(かんばせ)は瞬時に凍った。
『投降するよう促したが、抵抗したためやむなく応戦した。ともに深手を負わせたものの、最後の最後で見失った。淵に落ち、それからの消息は不明だ』
『……何てこと』
 思わずといった仕草で額に手を遣り、ケレスが呆然と嘆息する。
 その様子を事もなげに見つめた赫い瞳は、相も変わらず不気味なまでに凪いでいた。
『故に、貴殿に問うため参上した。風術は、風領土(バリン)の者の得意とするところ。それもヘルファリアムを擁するとなれば、よほどの名族の出に違いない。そのような出自を持ち、しかもフィルナときわめて密接な関わりを持つような人物とは……果たして何者か』
 詰問にも似た疑問符は、唐突に室内を覆った静寂の中にむなしく散った。
 珍しく困惑の体を晒したまま舌を打ったケレスの横で、見る間に顔を蒼ざめさせたラチェクがはっと口元を覆う。
 ともに宙へと投げだされた二人の視線が行き着いたのは……背筋を伸ばして座したまま一切の動きを止めた、彫像のような乙女の姿だった。
『……一言申し上げても、よろしいでしょうか』
 か細いソプラノの響きとともに、銀糸の髪がさらりと揺れる。
 ゆっくりと顔を上げたセレナを見遣り、ルスランは仮面のような無表情のまま首肯した。
『貴男は、今のお話をヒルズ様にお聞かせするため、わざわざここにいらしたのですか』
『そうだが』
『……ならば、その行動はあまりにも性急に……そして無防備に過ぎましょう』
『……何?』
 己に負けず劣らず淡泊な声音に、ルスランは思わず眉をはね上げた。
『明らかに他国(・・)の者と分かる輩が、領土を侵犯したのでしょう?いくら‘支配者’に早く伝えるべきであろうと、そのような国家機密を部外者の前で口にするべきではありません。その部外者が、件の他国と浅からぬ繋がりを持つ者であれば、尚更のこと』
 石膏のように白い面は、あくまで穏やかなまろみを保ったまま、驚倒の翳はおろか、僅かな波の立つ空隙すら見当たらない。
 呆然と己をみとめたケレスとラチェクを知ってか知らでか。沈黙するルスランを冷然と見遣り、セレナは再び桜色の唇を開いた。
『ことは一刻を争う椿事です。しっかりと人払いをした上で、他の三人の支配者方を交え、早急に策を講じることをお勧めいたします。無論、皇帝陛下にもご奏上を』
 初夏の新緑を映し込んだエメラルドグリーンと、灼熱の火口を覗き込んだような赫。
 いっそ嫌味なまでに落ち着き払った二対の視線が、目に見えぬ火花を散らして絡む。一見すれば美しい絵の如きその図はしかし、一触即発の危機を招かんばかりの不穏な空気を孕んでいた。

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