茫々と廊下を照らす灯りが、歩みに合わせてゆらゆらと揺らめく。
闇に染め上げられた白い敷石を踏みしめながら、セレナはゆっくりと背後を振り返った。
『……ここまでで十分です。ありがとう』
密やかに反響した甘い声に、落ち着かなげなラチェクの瞳がびくりと揺れる。
‘ギモールの範’に連なる者──つまりは貴種の鮮やかなそれとは根本から異なる薄桃色の虹彩は、気丈に前を向きながらも、多分に不安を帯びていた。
『あなたは先に戻って、もうお休みなさい。私は、大丈夫ですから』
幼い貌を強張らせた私民の少女に淡い微笑を返しながら、セレナは目の前にそびえる大扉を仰いだ。
漆黒に塗られたオーク材の表に燦然と浮かび上がったのは、見事な金細工で描かれた、双頭の龍の意匠。鋭く剥かれた双眸には大粒の紅玉が惜しげもなく嵌め込まれ、己を見つめる翠緑玉を激しく威嚇しているようにも見える。
繊手の中で息をひそめる黄金の鍵を握りしめたまま、セレナは溜息とともにゆっくりと歩を進めた。
『ひ……姫様!!』
そろりと上がった腕を止めたのは、か細く……そして半ば思い詰めたような呼び声。
思わず振り返ったセレナの視線を、大きく見開かれた薄桃色の双眸が発止と捉える。小さな肩を震わせたまま棒立った少女が絞り出すようにして紡いだ声は、しかしそれでもはっきりとした響きをまとっていた。
『お……お兄上は、きっと大丈夫です。わたしなどには分からないけれど……とっても強いお方なのでしょう?それなら、あんな無粋な男に──ルスランなんかに負けません!!きっと姫様を助けに、ここへ来てくれるはずです!!』
余程緊張していたのか、半ば一息にまくし立てられた少女の言に、緑の双眸が大きく見開かれる。
一瞬呆然たる驚きに撃たれたその眼差しはしかし……次の刹那、氷が溶けるようにしてふわりとほぐれた。
深く澄んだその彩に宿ったのは、諦観にも似た慈しみか。あるいは、万感の思いを込めた憐憫か。
真っ赤になってぜいぜいと息つくラチェクの小さな頭を見つめながら……セレナは、哀しいまでに綺麗な貌で笑み零れた。
『……ありがとう』
今度は真っ直ぐ伸びた手が、美麗を極める鍵を扉へと導く。
錠が外れる重い音とともにゆっくりと開いた大扉の向こうへ、白銀の乙女は躊躇うことなくその足を踏み入れていった。
古びた書物の匂いとともにセレナを迎えたのは、どこからか清かに流れ込んできた微風だった。
風の精の吐息にも似たその名残が、手にしていた手燭の火をふわりと吹き消す。手元の灯りが消えたことになど気付きもせずに……乙女はただ、目の前に広がる光景に目を奪われていた。
大きく瞠られた緑の瞳に映っていたのは、壁を埋め尽くすようにして並べられたマホガニーの大書架。同じ重さの宝石よりも数段値が張るに違いないその上に隙なく収まるのは、いずれ劣らぬきらびやかな装丁で飾られた大小様々な本の群れ。そして、それら全てを幽玄たる輝きで浮かび上がらせていたのは……かすかに揺らめきながら輝く、光の雨だった。
炎とも陽光とも異なる淡光は、広い室内のそこかしこに吊るされ、あるいは埋められた子供の掌ほどの宝珠から発せられている。
ある時は月白色から薄黄色へ。またある時は薄藍色から淡翠色へ。刻一刻と彩を変えて瞬く不可思議な光が思い起こさせるのは、夢現の狭間で踊る鬼火か、あるいは夜空に留まり綺羅めく星か。
夢現の狭間を彷徨うかの如く進み出た足が、毛足の長い絨毯の海に沈む。
手近に宿った光源のひとつにふらりと伸びたセレナの手を、儚く揺れる蒼色がゆらゆらと照らした。
『触れぬ方がよい』
唐突に響いた男の声は、今にも宝珠に触れようとしていた繊手を弾くようにして止めた。
『燐水晶だ。火の呪力を持たぬ者が不用意に触れれば、手を灼かれる』
相も変らぬ冷ややかな声音が、静寂を溶かした空気を無遠慮に裂く。
書架の影から音もなく抜け出てきた長身をみとめ、セレナは思わず肩を強張らせた。
『どうして……』
──どうして、此処に。
飲み込みかけた疑問符とともに後退った乙女を一瞥し、ルスランはふと天を仰いだ。
細く流れた赫い視線が示したのは、天井近くに設けられた張出窓のひとつ。わずかに開けられたその隙間から入った夜風が、黒く分厚いカーテンをはたはたと揺らした。