黎明を駆る者

第5章 光の雨の降る夜に 6

『鍵を持たずとも、入る方法はある』
『………………』
 答えになっているようでなっていない科白に、セレナはただ沈黙だけを返した。
『貴女こそ、何故ここに。しかも、このような刻限に』
『私、は……』
 相対する男は殺気も闘気も発さぬまま、ただ端然と佇むのみ。
 それとは逆に、嵐の如く波立ち始めた己が心裡(しんり)に気が付いた時……どういうわけか、セレナは酷く狼狽した。
『……落ち着いて考え事が出来る場所を探していただけです』
『……ならば、私がいては差し支えよう』
 思わず顔を上げたセレナを、紅玉(ルビー)よりも深い(あか)色が映した。
『仇の顔など見ていては、落ち着くこともできまい』
『……!?』
 息を呑む音とともに一杯に見開かれた緑を見返し、ルスランはただ無言で踵を返す。
 裂けた外衣が音もなく宙を横切るその様を呆然と認めたまま……セレナは、頭に上りかけた熱が一気に冷えていくのを感じていた。
 代わりに脳裏を過ぎったのは、醜く燃えた感情の欠片をまざまざと見せつけられたかのような驚きと、そして罪悪感にも似た一種の気まずさ。
 それらの不可思議な思いを持て余しながら、乙女は再び静かな声を零した。
『……構いません』
 思いのほか凛と響き渡ったソプラノは、歩み出した男の脚をひたりと掴んだ。
『貴男は、仇ではありませんから。気に病む理由などありません』
 振り返ったルスランを悠然と見返し、セレナはゆっくりと背筋を伸ばした。
『……貴女の兄を斬り、淵に叩き落としたのはこの私だ。それでも、仇でないと言われるか』
『……貴男に、兄は殺せませんもの』
『何……?』
『たとえ国ひとつ潰してでも、俺はお前を守る。絶対に、置いていなくなったりはしない。だから心配するな』
 剣呑な光を帯びたルスランの瞳が、セレナの瞳を真正面から射抜く。その鋭鋒をするりと流し、白い乙女は百合のような微笑を浮かべてみせた。
『父と母の訃報を聞いた兄が、私に言った言葉です。兄は約定を違えるような人間ではありません。だから……無事でいるはず。少なくとも、私がここでこうして生きている限りは』
『……子どもの戯言とは思わぬのか』
『言葉には、呪力(じゅりょく)とはまた違った力がございます。信じれば、嘘が誠に化けることもありましょう?それに……』
伏せられた白銀の睫毛が、微かに揺れる翠緑玉(エメラルド)を隠した。
『そう思えばこそ、私も、こうしてここにいることができますから』
 やや不安定な心持ちで開いた口は、己自身思いもかけなかった言葉を次々と紡ぎ出す。
 再度訪れた沈黙の中、セレナは己のうかつさに嘆息しながら、ただ俯くほかなかった。
『……急ぎの用があると、申していた』
 唐突に降ってきた科白に、乙女は思わず弾かれたように顔を上げた。
『貴女の兄だ。急ぎの用がある故、強行突破もやむを得まいと、一歩も退かずに言い切った。成程……守るべき者の元へ参じるためであったというのなら、納得もできる。迷いのない、いい目をしていた』
 無機的に紡がれる男の声には、抑揚もなければ血の通った感情の片鱗もない。しかし……だからこそ、その科白は、張り詰めた精神(こころ)の隙間に驚くほど滑らかに入り込んできた。
 薄い氷が一気にひび割れるのと同じくらいの速さで溢れ出したのは、強過ぎる意志に頑なに抑え付けられてきた奔流のような情動。目の前に立つ男への憎悪か、あるいは失ったかもしれぬ兄への哀しみか。向かう先すら失した思いは、セレナ自身が驚く程の唐突さで以て、その発露を示し始めていた。
『…………!?』
 ぎょっとしたように(みは)られた赫い瞳が、揺らめく光の雨とともにぐにゃりと歪む。
 明滅を続ける妖しい水晶に照らされた乙女の顔は、先刻の微笑の名残を留めたまま、溢れ出る涙に濡れていた。
 肩を震わせることも、しゃくり上げることもない。微動だにせずはらはらと落涙するセレナを、黒衣の男は珍しく唖然とした表情で見下ろすほかなかった。
『……ごめんなさい。どうぞ、気になさらないで……』
 未だ呆然たる気色を湛えた瞳が、涙の膜を纏ったままゆっくりと瞬く。
 哀しい程に澄み切ったその視線を前に……ルスランは、言葉もなくただ立ち尽くしていた。
 凍てついたピジョン・ブラッドをわずかに波立たせるのは、困惑……それとも動揺か。怨みも激情もない、ひたすら静かな嘆きに対するための行動と言葉を……彼は、どうしても見つけることが出来なかった。
 宝珠から零れる蒼白い光に合わせ、床に伸びたふたつの影がひらひらと靡く。
 その不確かでぼんやりとした様は、互いの裡にそれぞれ惑いを抱えた、主の心を体現しているようにも見えた。

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