黎明を駆る者

第6章 盟約 2

「……そのくらいになされませ、フリート殿」
 激しく燃える北王国の主の視線をいなしたのは、やはり東の女王の鷹揚な一声。憂愁を帯びた眉をほんの僅かにひそめながら、アルダはほうと大仰に嘆息した。
「祖国と面子を潰されたお気持ちは、よく分かります。でも……今は過ぎた事ばかりを述べ立てていても、仕方がありませんことよ。ねぇ、サーリン殿?」
「……そうですな」
 婦人の科白に同意を示した南の王の長い指が、不意につと円卓を滑る。
音楽家のように形よく整えられた爪先が押し出したのは、簡素だが美しい装飾が施された一枚の薄様と、どこにでもあるような銀色の鉄筆(ペン)。フィルナ語と、複雑な文様を思わせるルナン文字の両方で綴られた文言の下には、鮮やかな色の玉璽(ぎょくじ)とともに、流麗な()による三つの署名が書き込まれていた。
「……残るは、貴殿のみだ」
 張り詰めた静寂を従えた科白に、表情のないコーザの瞳がするりと細められる。
 塑像の如く座り尽す西王を映したシェルトの目は、いっそ不気味なほどに涼やかだった。
「まずは使者をという貴殿の気持ちも分からぬわけではない。無理に迎合せよとは言わぬ。だが……貴殿が署名せずとも、我らは協定を破棄する。これは、決定事項だ」
 恬淡たる口調で言の葉を紡ぎながら、南の王はゆっくりと嘆息した。
「此度攻撃を受けたのは、貴殿の国の、貴殿の民だ。その怒りを、その恐怖を何より代弁すべき者が、少しでも()の肩を持とうとすれば、彼らはどう思おうか。ましてや、貴殿の場合は事情が事情だ。身内可愛さゆえの妄言と取られても、釈明出来まい」
 海のように朗々たる声に、あくまで穏やかなアルダの眼差しが、激情に駆られたシュベンドラの視線が重なる。敵意にも似た無言の圧力を、つとめて自然に躱しながら、コーザは毅然とした口調で言の葉を紡いだ。
「……王の役目は、民を守ること。(いたずら)に事を急いては、却ってその安寧を乱すことになりましょう。例え望みが薄くとも、衝突を防ぐ努力はするべきでは」
「……ただの小競り合いならば、それでもよかろう」
 ひたすらに淡泊な科白を素気無く退けたのは、句でも詠むかの如き典雅な声。
 冬の湖を溶かし込んだように穏やかな……しかし底の見えない凍気を含んだ翠の瞳が、一同を循々と見遣る。文人然とした細面を一寸たりとも動かさぬまま、シェルトは卓上の指を優雅に組んだ。
「だが、此度は事情が違う。彼の国(・・・)は──魔帝(まてい)は、本気だ。民を喰らおうと牙を剥く獣を前に、まだ鞭を抜かぬというのならば、それは和平の希求などではない。ただの愚かな世迷言だ」
 ──アンタがどれだけ綺麗事言おうと、俺には関係ねぇよ。
「休戦を解いたからといって、すぐに戦になるわけではありませんわ。一旦フィルナ連合としての足並みを揃えた上、改めて協議の道を探ることも、有効な手段ではなくて?」
 ──何百人でも何千人でも犠牲にすればいい。アンタは王だ。国を守るのが、アンタの仕事なんだからな。
 甘やかな……しかし動かぬ意志を秘めた科白にふと被さったのは、断罪の一撃にも似た青年の言葉。
 かつて玉座に座る己を燃えるような……それでいてひどく醒めた眼差しで射抜いた血色の瞳は、まるで悪夢の幻影の如く、コーザの心中をじりじりと焼き焦がした。
「……仮に貴殿が我らと袂を別ったとしても、ルナンの手が貴国に伸びれば、我らはそれを迎撃すべく貴国を侵犯する。たとえ、そのために貴国が被害を被ったとしてもな」
 ふたりの王がわずかに与えた空白を駄目押しのように埋めたシュベンドラの科白に、コーザが静かに目を閉じる。ふわりと降りた闇の帳を過ったのは、翠緑玉の瞳の乙女に寄り添う赤い眼の青年。そして……そのどちらにもどことなく似た面差しを持つ、たおやかな女の残像だった。
 ──兄様。どうか、覚えていて。
 凛とした声をかき消すように纏い付くのは、輪舞の如く伸び上がった蒼い焔。鮮烈なまでに不穏な彩を背に佇む彼女の姿は、まるで蜉蝣(かげろう)のように儚く……それでいて、哀しい程に端然とした気色を纏っていた。
 ──皆、同じよ。フィルナの民も、ルナンの民も……皆、同じ人。私は、そのことを証明してみせる。だから……見ていて。
「……覚悟を決められよ、西の賢王殿。我らはもう、退くことはできぬのだ」
 ──私たち(・・・)の子が、どんな未来を選ぶのかを……。
 ──俺は、アンタじゃない。アンタのようにはならない。国の為に妹を見殺しにした、くそったれの兄貴にだけはな!!
 最後通牒にも似たシェルトの科白に、コーザがゆっくりと括目する。
 その脳裏を掠めたのは冷厳たる拒絶か。それとも、諦念とも呼べぬ不完全な思い切りか。
 呪いの如く反響する叫びを、その名残に被さる笑い顔を振り払うようにして両眼を絞りながら……西王国を統べる男は、迷いなき動止で筆を取った。
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