黎明を駆る者

第7章 カルマの鎖 10

『…………!?』
 凜冽たる空気を駆けた、かすかな不協和音。
 はっと上がったウォルメントの視線が捉えたのは、少年の頭上で静止していた緑水晶が粉々に砕ける、まさにその瞬間だった。
 鬼火めいて輝く緑色は連鎖反応を起こしたかのように次々と破裂し、砂よりも細かな粒子となってたちまち霧散していく。
 突如溶け出た色彩に囲まれ立ち尽くしたウォルメントを、掠れに掠れた幼い声がふわりとすくった。
翠華水晶(ヒリヴァール)……だよ』
 激しく揺れる濃紅色の虹彩の中で、小柄な影がぎこちなく蠢いた。
地領土(ドルガ)でしか採れない、希少な晶石(いし)、さ。綺麗、でしょう……?』
 左の肩と脇腹、さらには先程の攻撃で抉られたのか──右目をも酷く損じながらも立ち上がったケレスの顔には、相も変わらず飄々とした嗤笑が浮かんでいる。
 その不気味なまでの平静さに、思わず一歩後退ろうとした時……ウォルメントは、ふと己の違和に気付いた。
 身体が、動かない。
 二本の脚はその場に棒立ったまま、地を踏みしめる感触そのものが、綺麗さっぱり消え失せている。
 まるで脳と身体を繋ぐ糸をふっつりと切られたような異様さに、麗人はただ茫然と目を見開くしかなかった。
『硬度はないに等しいけど……代わりに、ちょっと変わった特性があって、ね。割れたり砕けたりする度、ごく微量の瘴気を出すのさ。麻痺毒によく似た成分の、ね』
 がしゃんと音を立てて落ちた氷の槍が、床に積もった緑片の中に瞬く間に溶けて消える。
 声帯すらも硬直したのか、かすかに震えたウォルメントの頸を、血に塗れた細腕がゆっくりと捉えた。
『少し吸った程度なら、何も影響はないけど……限度を超えると、そうなる(・・・・)。呪法を使い続けたのなら、尚更回りは早かったはず。動けない、でしょう?』
『…………!!』
 喉元を掴まれ引き倒された麗人の口から、音にもならない苦鳴が漏れる。人形のように頽れたその肢体に傲然と跨り、ケレスは朗らかな声で笑った。
 頸にかけられた赤黒い手は白磁のような顎を伝い、やがて火を噴くような眼差しで此方を睨む美しい貌へとのぼる。屈辱と怒り、そして未だ冷めやらぬ驚きにぎらつく唐紅色と真正面から向き合いながら、少年は再び口を開いた。
『ずいぶん、酷いことをしてくれたけど……残念、だったね。君に、僕は、殺せない』
 密やかに耳朶を灼いた嗤い声に、ひりつくような殺意がより一層鋭さを増す。
 その根源へと注ぎ込まれた悪戯めいた視線は……まるで嵐の前の海の如く、一種不気味な静けさに満ち満ちていた。
『だって……でしょう?』
 翠舞う夜気に紛れてしまう程かすかな囁きはしかし、次の瞬間、麗人の呼吸を驚くほど鮮やかに止めた。
 鏡面を砕くように霧散した殺意の代わりにその瞳を満たしたのは、驚愕とはまた異なる衝撃と……そして絶望にも似た恐慌。
 ただ唖然と瞠られた深い紅色を覗き、ケレスは緩やかに右手を滑らせた。
 爪先にまで血が入り込んだ親指は、優美に形作られた左の眼窩の横でひたりと止まる。それでもなお放心したままのウォルメントをうっそりと見下ろし、少年は再び撫でるような声を零した。
『君には、特等席を用意してあげるよ。そこで、僕達のゲームの行方を黙って見ているといい。でも……』
 一段低められた科白の響きにようやく気付いた麗人を、半顔を損じてなお愛らしい微笑が見返す。
 視界の真横でゆっくりと立てられた指の感触に、曝け出された生白い喉がひゅうと鳴った。
『その前に……お返しは、させてもらうよ』
 限界まで見開かれた瞳が最後に映したのは、嫣然たる少年の貌か……それとも苛烈なまでに熱く鮮明な朱の海か。
 無音の絶叫が閃く緑の闇の中、地に立つ剣だけは、ただ冷々とその刀身を晒していた。
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