黎明を駆る者

第7章 カルマの鎖 4

『しかしまあ、その息子にこのような形で会うとは、思わなんだ。長生きはしてみるものじゃの』
 ──まこと、よう似ておる。
 うっすらと……そしてどことなく醒めた微笑とともにそう(うそぶ)く少女を、ハルは何とも言えぬ面持ちで見返した。
 組織(エヴァライムズ)はおろか、ルナンの貴族社会においても絶大な発言力を有するというこの女傑には、シネインのような情熱も、ぎらぎらとした気負いも見受けられない。あるのはただ流れる水の如く、超然とした諦念のみ。ウィットに溢れた眼差しの裏に時折仄めくその欠片を、ハルは我知らずの内に感じ取っていた。
『……ひとつ、聞いてもいい……だろうか』
『何じゃ、改まって』
 慣れぬ語調とともに向き直ったハルを、怪訝そうな眼差しがきろりと睨み上げた。
『あんたは、その……何故、組織に入ったんだ?この国で上に刃向かうということがどういうことか、よく知っているはずなのに』
『…………』
 戸惑いを含みながらも真っ直ぐな問い掛けに応じたのは、新月の空の如き微笑。
 その一方で……艶めいた魅力に満ちたその視線は、どういうわけか酷く冷ややかだった。
『まさか、シネインの理想とやらに本気で共鳴したとか……』
『……我らがこの国で生きるに当たり、最も必要とされる素質は、何じゃと思う?』
『…………?』
 唐突な返しに首を傾げたハルを見返し、マリアンはくつくつと喉を鳴らした。
『家格、呪力、才知……他にもままあろうが、いずれも正解ではない。一番重要なのは、無我であれる事よ。何が起きようとも、決して顔色を変えぬ程にの』
 碧い瓶を手の内で転がしながら、少女貴族は麗らかに笑う。その愛らしい仕草の裏にはしかし、途方もなく深く、老獪な翳が潜んでいた。
『一時の情けに(はや)れば、滅ぶのはわが身だけでは済まぬ。守るべきは忠義でも名誉でもない。己が家の血じゃ。故に、定められた秩序の裡で、定められた(カルマ)に従い生きるのよ。それが、我ら貴族にとっての(さか)しさというものじゃ』
 はるか下方からデッキを染め上げる光に、また新たな色が加わる。夜の深まりとともにより一層華やかさを増していく黒の都の片隅で、ふたつの影は身じろぎもせずに肩を並べていた。
『皇家を戴きその命を仰ぎ、見返りとして一族に安寧をもたらす。わらわも、そうして長き時を生きてきた。そのことを、悔いてはおらぬ。しかし……ある時、ふと飽いてしもうたのよ。何も見えず、何も感じぬふりをすることに、の』
 歌のようにつらつらと紡がれてきた科白が、不意に途切れて消える。
 僅かな間に滲んでいたのは、皮肉とも自嘲とも取れぬ、何とも複雑な綾だった。
『……わらわはかつて、数多の術士を育てた』
 ぽつりと漏れた呟きを乗せた夜風が、鮮やかに艶めく射干玉(ぬばたま)の黒髪を揺らした。
『その中で、飛びぬけて出来の良い輩が三人おっての。直弟子として置くことにしたのよ。しごきにしごいて鍛え上げ、わらわの持てる全てを与えた上で、戦場へと送り出した。この国の為、皇家の為、そしてわらわの働きの証となることを願って、の』
 美しい瓶を弄んでいた細い指が、不意にその動きを止める。
 薄く紅を刷いた唇からふと零れたのは、真冬の靄のように、淡く儚い吐息だった。
『……彼らはよう働いた。数多くの武功を立て、名を馳せ。うちひとりは‘支配者’となり、皇帝より(あざな)を与えられたほどよ。だが、今はもう、誰もおらぬ。皆、わらわが殺した』
 思わず瞠目したハルをよそに、少女貴族はただ淡々と言の葉を続けた。
『ひとりは反逆の疑いを着せられて帝都を追われ、わらわ自ら兵を率いて征伐した。もうひとりは自裁を命ぜられ、これも最終的にわらわが引導を渡した。最後のひとりは……直接手を下しこそせなんだが、決定的な‘死’を与えたのは、わらわということになるかの。散々に責め苦を受けた挙句惨死した身から、その首を落として晒した故』
『…………!?』
『命を下したは全て……我らが主と仰ぐ、皇帝その人よ』
 絶句したまま硬直した青年から目を逸らしもせず、マリアンはゆっくりと嘆息した。
『……五年前にハラーレの首を打った時、わらわが為してきたことは全て水泡に帰した。その時、気づいてしもうたのよ。わらわの奉戴も、その代償として勝ち得てきた安寧も、彼の御方にとっては何の意味もない。それならば……せめて一泡吹かせてやろうと思うたのじゃ。わらわが殺した子らへの、せめてもの(はなむけ)として、の』
 つらつらと紡がれる声に薄衣の如く纏わり付くのは、一抹の寂寥と……そして慙愧の念にも似た、途方もない虚無感。
 それきりふっつりと沈黙したマリアンの横に立ち尽くしたまま、ハルは再び眼下の幻光群へと目を遣った。
 濃淡入り乱れた光の海の中、否応にも目が行くのは父が長い時を過ごした──あるいは己もそうするはずであった館の彩。幼い頃から慣れ親しんできたはずのその色はしかし……まるで不吉な鬼火の如く、ハルの心の裡を焦がした。
『……父上も、同じように考えたんだろうか』
 ふと響いた呟きに、今度はマリアンが顔を上げた。
『俺と妹をルナンじゃなくフィルナへ遣ったのは、父上だ。俺はそれを、母上の為だと思っていた。でも、今あんたの話を聞いて……もしかしたら、それだけじゃねぇのかもって』
 艶やかな少女の双眸に映り込んだ己は、まるで迷子のように情けない顔をしていて。
 いつの間にやら乱れ始めた口調にも気付かぬまま、ハルは再び口を開いた。
『父上は自分のことをほとんど話さなかったけれど……‘支配者’にまでなったんだ。俺たちが生まれるまでは、あんたが言う‘貴族’を地で行くような生き方をしてきたんだろう。その筋金入りのルナン貴族が、仮にも跡継ぎを他国(よそ)へ行かせるなんて、よほどの覚悟がなければ無理だ。それこそ、家を潰すくらいの』
 訥々と……そして腹の底から絞り出すような科白に、相槌や答えはない。
 その事を気に留める余裕もなく、青年は深い嘆息とともに視線を伏せた。
『……そうまでして、父上が俺にさせたかったことは、一体何だったんだろう。フィルナについてルナンをブッ潰すことなのか。それとも、ルナンの側に立って、自分が果たせなかった役目を全うすることなのか。そもそも、俺にそこまでの力があるのか……。考えれば考える程、分からなくなってくるんだよ』
 鉄柵の縁を掴んだ両手が、不意にこもった力に軋む。
 しかし、ほんの僅かな沈黙に応じたのは……ハルが予想だにしなかった一言だった。
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