黎明を駆る者

第7章 カルマの鎖 5

『……阿呆よの』
『…………は?』
『阿呆、と言うたのじゃ。聞こえなんだか?』
 唖然たる顔で振り返ったハルの視線を歯牙にもかけず、マリアンは心底呆れたと言わんばかりのため息を零した。
『死んだ者の心中など、もはや誰にも分からぬわ。あれこれ悩んでもせん無き事。それこそ、時間の無駄ではないか』
 文字通り阿呆の如く見開かれた紅玉(ルビー)の瞳を、権高な声と視線がぴしゃりと打つ。
 反論の句も継げない青年を置き去りに、情け容赦ない毒舌は続いた。
『今生きて、行動しているのはそなたであろう。自分が為すべき事は、自分で考えよ。考えて悩み抜いた末に、決めた道を進むがよい。それが、死者の意に応えるということじゃ』
 断髪を風に遊ばせて佇む少女貴族の瞳は磨き抜かれた鏡の如く、ただ静かに輝くのみ。しかし……ほんの一片の忌憚も含みもないその光は、かつてハルが浴したどんな言葉よりも、彼の心を揺さぶった。
 打算も、諦めも、それに付随する恐慌や哀憐もない。ひたすらに純粋な‘期待’。
 アースロックやコーザはもちろん、己と立場を同じくする妹からも向けられた事のない感情の矢は、不意打ちにも似た鮮やかさで彼の煩悶に風穴を開けようとしていた。
『……考えるだけ無駄な事も、世の中にはままあるものよ』
 稲妻に撃たれたように立ち尽くすハルの心中を知ってか知らでか、豊麗な仕草で髪を掻き上げ、マリアンは低く喉を鳴らした。
『そもそも、あの阿呆がそう大層な事を考えておったとは到底思えぬ。そなたをフィルナへ遣ったのも、案外どうでもよい理由故やもしれぬぞ』
『……フィルナの方が、菓子が美味い、とか?』
『……何じゃと?』
 思わず此方を振り返った少女貴族を見返し、ハルはふと肩を竦めてみせた。
『……‘森’の外に出かけた帰り、決まって菓子ばかり買ってきて、母上に叱られていた。こっそり隠れてふたりで食ったけど……その時によく零してたんだ。菓子は、フィルナの方が美味かったって』
『……あり得ぬ、と言えぬことが情けないわ。全く……あの、大たわけめ』
 本気で落胆したらしいマリアンの横で、今度はハルが笑う番だった。
 再び眺めた幻燈の街は、いつしか暮れた闇の中で一層美々しく煌いている。その中で、滲んだように燃え立つ紫炎の彩は、相も変わらず妖しく、気高く……そして、ほんの少しだけ心安いものに見えた。
『……明日は』
 淡く滔々とざわめく灯りを見遣ったまま、ハルはぽつりと言の葉を零した。
『明日は……あんたも、行くのか。その……儀式とやらに』
『当たり前であろう。そなた、わらわを何と思うておるのじゃ』
 にべもなく即答したマリアンを、紅玉の瞳が静かに捉える。
 相も変わらずひねくれめいたその視線はしかし、その虹彩に映る柔らかな光と相まってか、仄かな和らぎを含んでいた。
『……()が済んだら、もっと色々な話を聞きたい。だから……無事に戻ってきてくれ。あんたも……ついでに、シネインも』
『……何を言うかと思えば』
 真摯な眼差しを素気なく退けたのは、含み笑いのような嘆息だった。
『明日は、この国の全ての(・・・/rt>)貴族が集う儀ぞ。そなたも行くのじゃ。決まっておろう』
『は……?』
『……言うたであろ?』
 薄い紅色に染まった唇が、優雅な三日月を描いて妖しく光る。
 刹那、暗がりから音もなく進み出てきたのは、水色の縫い取りが入った私民服を纏い、黒い木箱を捧げ持った妙齢の女だった。端正ながらも表情らしい表情のないその相貌は……つい先頃、暗がりに消えた白い猫と驚く程によく似ていた。
『働かざるもの、食うべからずと』
 歌うような少女貴族の言に合わせ、女が木箱を開ける。
 次の瞬間……ハルの双眸を穿ったのは、夜目にも鮮やかな紫の装束だった。
 一見して最上と分かる絹地を彩るのは、美しく象形された紫丁香花(ライラック)と百合の地紋。その上を流れるように埋め尽くした金糸銀糸の刺繍と徽章(きしょう)は、半ば闇に沈んだ夜の中でも、鮮やかに過ぎる程の光を放って見えた。
『我が(ともがら)が、ヴァイナス家より取り寄せた儀礼軍装よ。一着はあの阿呆が駄目にしてしもうた故、勤勉な同家の私民が仕立て直したそうな。見たところ丈が合わぬようであった故、直させたが……いかがかの?』
 思わず絶句したハルを面白そうに見遣りながら、少女貴族は再び低く喉を鳴らした。
『最高の衣装を手に入れたのじゃ。明日はわらわ自ら、最高の化粧(けわい)をしてやろうぞ。そう……最高の、のう』
『あんた……』
『今のそなたの最強の武器は、武力でも呪力でもない』
 すらりと伸びた白い指は、半ば引きつったハルの頬を滑らかに愛で、そのままその(おとがい)へと至る。もはや反応も示せぬまま硬直した青年を、挙動と視線の両方で捉えたまま、マリアンはこの上なく美しい顔で微笑った。
『いかに愚かで阿呆であれ、あれ(・・)は面白き(おとこ)であった。かの影を忘れ得ぬ者どもにとって……そなたの姿は、なまじ(しゅ)の一撃よりも遥かに強烈であろうて』
『……本気かよ』
『わらわは、冗談は好かぬ。逃避めいた夢物語など、無論の事。故に……これ(・・)を使うのよ。』
 ──甘き幻想に惚けた輩に、最高の喜劇を見せるために、の。
 独言めいた呟きとともに蒼白い小瓶を差し上げ、マリアンはくつくつと嗤う。
 その掌でハルの頬を今一度ゆっくりと撫で上げながら、麗しき少女貴族は、咲き誇る薔薇にも似た艶やかさで一笑した。
『明日の主役は、これ(・・)とそなたじゃ。最高の舞台で、最高の道化を演じてみせよ。愚かでかわゆい、我が孫弟子よ』
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