『当家の隠し書庫で見つけました。エリエナ・ウェルズの日記です』
今度こそはっきりと瞠目したケレスを射抜き、無貌の麗人はゆっくりと顎を引いた。
『約六十年前……ヴァラクの戦の直前に服毒死した、私の大叔母です。彼女の最晩年の日記に、その人物と同じ名がありました。‘皇太子ザフェル=トヴァ・カルタラスに仕える、地領土のケレス’……貴方のことですよね』
沈黙を決め込む少年の前で、蒼い冊子がするりと落ちる。その拍子に糸が切れたのか、細かな文字が書かれた紙片は、死んだ蝶のようにはらはらと床を滑った。
『他にも、色々な事が書かれていました。即位以前の現皇帝のこと。‘神降ろし’の記録のこと。そして……貴方が一体、何をしたのかも』
薄笑いをはりつけた貌は、相も変わらず時を止めたまま。立ち尽くす‘悪戯者’を映すウォルメントの視線は、‘氷の魔性’の字さながら、ただ冷たく凍てついていた。
『……余計な事はするなと、言ったのに』
薄い唇からようやく漏れ出たのは、苦笑交じりの軽いため息だった。
『恐ろしく難解な呪法式から、しょうもない子どもの悪戯まで……何につけてもしつこくしつこく知りたがるのは性分か、それともオース家の血か。どちらにしても、困ったものだよ』
──知らない方がいい事なんて、世の中には、嫌と言うほどあるのにねぇ。
大仰な仕草で肩を竦め、少年はくつくつと喉を鳴らした。
『……あの時だって、そう。黙ってさえいれば、何だって望みのものをあげたのに。だけど……僕達のように‘見ないふり’をし続けるには、少しばかり生真面目過ぎたんだろうね。ものすごい剣幕で、散々に僕を責めたよ。君そっくりの、綺麗な顔でね』
温度のない視線で此方を見つめるウォルメントをよそに、詠うような告白は澱みなく続く。しかしながら……道化めいた科白を乗せたその声音は、奇妙なまでに平坦だった。
『だから、消えてもらったのさ。彼女が知った真実ごと、ね』
『…………』
おもむろにその足を折り身を屈めながら、少年は再び低く喉を鳴らした。
『それでもこんなものを残していたなんて……本当、しぶといや』
『……弁明する気は、ないという事ですね』
『……全部、あのひとのため、だもの』
平明だが冷厳たる詰問に応じたのは、ゆっくりと差し出された、小さな右手。その瞬間……地に散った紙片は、突如噴き上がった緑の焔の中に消えた。
鮮やかな光とともに夜気を侵したのは、発火石が燃える独特の臭気。
崩れた灰を踏み立ち上がりながら、ケレスは常と寸分も変わらぬ悪戯な顔で微笑った。
『僕はただ、あのひとの望みを叶えてあげたいだけ。そのためにした事を、何ひとつ後悔なんてしてないよ。あのひとが笑ってくれれば……僕は、それでいいんだから』
『世迷言も、大概になさい』
滔々と紡がれる幼い声をはねつけ、ウォルメントはぎらりと双眸を絞った。
『反乱軍を組織してその御代を汚し、秘術を隠匿し……あまつさえ、その命を奪う事が、皇帝陛下の為だと?貴方がした事は……しようとしている事は、ただの薄汚い裏切りでしかない。それが、何故分からないのですか?』
『……言ったでしょう?』
ゆっくりともたげられた細腕が、冷え切った空気をふわりと掻いたその刹那。鉱物を統べる‘地の支配者’の招来により出現したのは、細剣さながらに研ぎ澄まされた、大小様々な結晶片だった。
薄緑色に発光するその様は、墓地を彷徨う不吉な鬼火を連想させる。音もなく増殖を始めた茫々たる輝きを背に、ケレスはゆっくりと嘆息した。
『全部、あのひとのためだって。僕がしようとしている事は、それ以上でも、それ以下でもない。それが分からないというのなら……』
一斉に此方を向いた切っ先を映し、麗人の瞳がより一層鋭さを増す。
鮮やかな翡翠の刃を背に負ったまま、少年は再び不透明な……それでいて総毛立つ程妖しい顔で微笑った。
『消えるといい。エリエナ達と、同じようにね』