黎明を駆る者

第8章 双月の幻 10

 苦笑まじりに紡がれた科白は、次の瞬間、フィリックスの呼吸を驚く程鮮やかに止めた。
 唐突に鋭く詰まった呼気を追いかけ、謹厳な外衣の肩がびくりとはねる。その視線も、言の葉も。何もかもを中途半端に放り出したまま硬直した風の‘支配者’を、冷たく光る真紅の眼がひたりと射た。
『そなたは獄の入り口で銀盤を持ち、‘炎の剣(スライヴァルアーク)’とともに控えていたであろう?そう……』
『……めろ…………』
『わらわが落としたハラーレ・ヴァイナスの首を、受け取るために』
『止めろ!!』  ぱんと音を立てて弾けた真空の刃が、床に無残な傷を穿つ。その拍子に飛んだ石片は少女貴族の頬を掠め、白い頬に一筋の朱線を残した。
『……あれ(・・)はとんでもない阿呆であったが、よい気骨の持ち主ではあった。骨を砕かれ、臓腑を抉られ。ありとあらゆる方法で苦痛を与えられても、恨み言ひとつ言わなんだ。首となっても、穏やかな貌をしておったわ。そなたも、知っておろう?』
『…………っ!!』
 氷が軋む音とともに、フィリックスがゆっくりと頭をもたげる。豪毅な気性に彩られていたはずのその貌はしかし……今や見てはならぬものを目にした呪われ人の如く、空虚な色に染まっていた。
『しかし……その本心は、如何であったろうの』
 傷から細く溢れ出た血糊が、玉の頬をするりと滑る。その汚れを払いもせずに戦乙女を見据える少女の目には、不気味なまでに冷々たる光が浮かんでいた。
『身から出た錆とはいえ、散々に苦痛を受け。友と部下には見放され、師に首を打たれ。命をかけて技を託した跡継ぎは哀れ斬られて藻屑となり、最後に残った娘までも今や囚われ傀儡となる身。いくらあれが阿呆であっても、黙って彼岸へ向かうには、あまりな仕打ちとは思えぬか?』
『何……を……!?』
『双月天心は、無境を喚ぶ(しるし)じゃ』
 翻された薄水色の裳裾が、砕けた石の上を音もなく滑る。幻像の如く視界を過ぎる鮮やかな彩が、不意にその明度を下げたのは……再度言の葉が継がれた丁度その時だった。
『ふたつの月の融和は、ふたつの世界の融和を招く。エリアと神界が繋がると同時に、現世と彼岸の境界も、ごく曖昧にしてしまうのよ』
 白煙にあおられ舞うペールブルーの向こうで閃いたのは、微かに煌めく光を纏った茫々たる影。蠢くような霞の中、それは徐々に姿を変えながら、確実に此方へ近づいてきているようにも見える。その不気味な進撃を知ってか知らでか……半身を優雅に翻した少女貴族は、相も変わらず艶やかな声を紡いだ。
『無論、境がなくなるわけではない。しかし、それを越える程の未練を……あるいは、越えるに余りある力を持つ者が、此方に手を伸ばしたとすれば……果たして、どうなるか』
 今度はごく至近距離で弾けたらしい呪法のあおりを受け、濃密な煙がぐにゃりと逆巻く。
 その拍子に大きく揺らいだ白と香気の中から、一息に現れ出た影を目にした時。
 フィリックスの虹彩を染め上げたのは、これ以上ない程の驚愕の色だった。
『……知りたいとは、思わぬか?』
 ひゅうと喉が詰まったような悲鳴を切り、磨き抜かれた軍靴が鳴る。
 重たげに翻る裾と、その動きに合わせて揺れる長い束髪。そして、無造作に下ろされた右腕で光る、妖しくも美しい光。
 それらを戴く存在が、朧な像から確かな姿に変容した瞬間……フィリックスは、己を取り巻く現状しがらみこれ(・・)全てを忘れていた。
 凍り付いた手が、儀礼装束で厳めしく鎧われた肩が、床に着いたままの膝が、我先にと力を失い砕け落ちる。声も上げずに自失した戦乙女を捉えたまま、美しき少女貴族はつり上げた唇をゆっくりと開いた。
『次は、そなた(・・・)の番ぞ。いざ、己が願いを果たしてみせよ。愚かで可愛(かわゆ)い、我が迷い子よ』
 熟れた揶揄に応じるかの如く掲げられた腕が、濃密な煙の海を一息に払う。
 長い袖の内で光った紫水晶(アメジスト)が、不意にその明度を増した……その刹那。
 疾風の刃に薙がれた少女の細い首は、鮮やかな血の帯を引いて刎ね飛ばされていた。
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