黎明を駆る者

第8章 双月の幻 2

東から出でる月は、‘闇世の王(クヴェラウス)’の右目より生まれし金色の君。


その雄々しき眼差しは現世(うつしよ)の隅々までを見渡し、迷える民を導くという。


西から出でる月は、‘闇夜の王’の左目より生まれし銀色の姫。


その情け深き眼差しは常世(とこよ)の果てなき静寂を癒し、父神の憂いを(すす)ぐという。


輝く妹背が逢瀬を果たすは二十年(はたとせ)に一度、互いの御身が重なるその刹那のみ。


交わされるその視線は光の(きざはし)と変じて射干玉(ぬばたま)の夜空を渡り、


迸るその随喜は煌めく星を戴いた天空(ヴァラルダ)をも焦がすという。


相反する世界を見張る両者の邂逅は、あらゆる事象の境を無に帰する。


夢と現、生と死の境すらもが朧となり、力ある巫者は、無き者の声を聞くという。


隔たれた二世界の(しがらみ)を蕩かす一時を、アガクの民は双月天心(そうげつてんしん)と呼ぶ。


この‘無境の(しるし)’が現れる時、巫者は南の神殿に贄を掲げる。


彼岸の向こう──即ち‘闇夜の王’のおわす神界に捧げる、敬虔な祈りの(しるべ)とする為に。




‘双月天心’〜ロメイン・ファイズ著 『地領土(ドルガ)の月にまつわる伝承とその考察』より〜



 ルナン帝国のほぼ中央に位置する皇宮には、四つの門がある。
 主に私民の通用口として利用される北の門。登城する官吏や貴人が常用する東の門。貴族の獄である‘西の塔’へ直結し、くぐれば二度と戻れぬと噂される西の門。そして、‘闇夜の王’に捧げられた、最も壮麗な様相を呈する南の門。
 常日頃は固く閉ざされているというこの南門は、二十年に一度だけ解放される。
 紅玉と黒曜石で一面を飾り立てた大扉が開いた、その向こう側には……極彩の色を戴く大空間が広がっていた。
 螺鈿と彫金で余すことなく装飾された壁の、血と見紛うばかりに深く濃い紅色。煌々と燃える燐水晶(りんずいしょう)を戴いた丸天井の、星空を思わせるような藍銀色。そして、その鮮やかな彩を鏡のように映し出す床石の、深雪(しんせつ)の如き純白。
 いずれ劣らぬ強烈な色が絢爛豪華に絡まり合った様は筆舌に尽くし難く、複雑怪奇な魅力に満ちている。
 その‘紅蓮月夜(ぐれんづきよ)の間’と呼ばれる皇宮随一の大広間の中、ほっそりとしたセレナの姿は、月柱のように際立って見えた。
 典雅なデザインの装束と、それにぴったりと誂えられた紫水晶(アメジスト)の装身具。あるいは、絶妙に施された化粧と髪容のせいか。憂いを帯びた翠緑玉(エメラルド)の瞳と紫の綺羅が創りだす翳は、人垣に囲われた少女に驚く程臈長けた印象を与えていた。 
 ──お初にお目にかかりますわ。水領土(イアリン)の……
 ──お会いできて光栄です。地領土(ドルガ)の……
 乙女を捕らえているのは彼女同様、各々の家章(シンボルカラー)で染めた正装をまとう貴族達だった。
 一見親しげな雰囲気を纏う彼彼女らの微笑は、完璧であるが故、嫌でもその底が見える。
 ヴァイナス家の家章たる紫で飾られた、‘白き女神(シュリンガ)’の恩寵の証たる白銀と緑。反発し合うはずの色彩を射抜く矢は、どうにも押し殺すことの出来ぬ嘲弄と、そして異形の美を愛でる好事家の狂気にも似た毒を含んでいた。
 しかし……その視線に曝されても、セレナの顔にはあくまで鷹揚な笑みが浮かんでいた。
 巨大な帝国の頂にそびえるルナンの貴族社会は狭く、その一方で沼のように深い。割におおらかなフィルナ西王国の宮廷で己が受けた扱いを思えば、彼ら帝国貴族の本意など、セレナにとってもはや自明の理ですらあった。
 一度覚悟を決めてしまえばあらゆる柵をすっぱりと断ってしまえる自分の性質(たち)を、乙女はよく理解している。
 冷徹なまでにさらりとした表情を乗せたまま、セレナは昂然と花の顔を上げた。
風領土(バリン)の……セレナ・ヴァイナスと申します。どうぞ、お見知り置きを』
 典礼の教本そのままの所作で礼を受ける姿には、怯みどころか緊張の片鱗すら見受けられない。むしろ堂々たる風格すら感じさせるその気色は、貴人達の出端を砕くと同時に、感嘆にも似た動揺をも集めていた。
『……驚いたな』
 ようやく引いた人並みを縫って零れたのは、素直な感嘆を含んだアルトだった。
 淡い緑の双眸が映したのは、己の斜め後ろに控えていた赤紫色の影。
 美々しい徽章や飾り紐で装飾された儀礼軍装の肩を竦めながら、影──フィリックス・キクスはゆっくりと言の葉を紡いだ。
『補佐するまでもなかった。向こう(フィルナ)では、公の場には出ていないと聞いていたが……』
『……そんな』
 思いもしない高評価に、セレナは戸惑いつつも言葉を返した。
『宮廷の作法など、何も存じません。どうにかこうして、他の方々に倣っているだけです』
『……とても、付け焼き刃には見えない。大した観察眼だ』
 ──血は争えないな。
 そう呟いた戦乙女が、鋭く切れた双眸をかすかに緩める。その言葉に淡い微笑だけを返し、セレナはふと右の(かいな)に意識を遣った。
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