『綾百合と夏蔓薔薇の精油。当家に伝わる、秘伝の調香じゃ』
翻された白魚の指が、薄水色の蝶を象る玻璃栓を引き抜く。
花開くように広がったのは、夏の日の朝の如く清涼な……それでいて芳醇な香り。
立ち尽くすセレナの心地を知ってか知らでか。驚く程自然な仕草で乙女の手を取ったマリアンは、その左手首の内側に一滴だけをぽたりと落としてみせた。
『香りも、女子の嗜みのひとつよ。あの朴念仁のことじゃ、無論教えておらなんだろうが……覚えておきや』
見開かれた翠緑玉を覗き込んだ赤い瞳はただ鮮やかに、そして艶やかに輝くのみ。
乙女がようやく我に返った時……爽やかな香気だけを残し、少女は既に身を翻していた。
『今宵繋がるのは、この世と神界だけではない。彼岸より来たる悪鬼羅刹から、身を守る役に立つやもしれぬ』
『脅し過ぎでしょう。子供騙しでもあるまいし』
『……どうかの』
どこか呆れたようなレジェットの科白に、マリアンは涼しい顔で両目を瞬かせた。
『げに恐ろしきは人の心、死してなおその妄執は消えぬ。わが弟子どもも、月に誘われ来たるやもしれぬ。己を死に至らしめた者に、復讐するために』
『リーズ公!!』
『冗談じゃ』
思わず声を荒げたフィリックスを軽くいなし、マリアンは再びぱらりと扇を開いた。
『……戯れはここまで。八つ時は間もなくぞ。‘炎の剣’は、早う阿呆どもを探してまいれ。ヴァイナス嬢の相手は……わらわがして進ぜよう』
レジェットの背をぐいと押しやったマリアンが、立ち尽くすセレナの瞳を覗いて嗤う。その完璧な微笑とともにセレナの意識を釘付けにしたのは……どうにも言いようのない、しかし生物としての本能に依る‘警鐘’だった。
婀娜めいた眼差しに宿る包容力溢れる光は、それでも確かに冷気を──それも瀕死の獲物を睥睨する猛禽のような冷気を孕んでいる。その不可思議な齟齬の意味をはかりかねたまま、セレナはただその美しい面を見続けるほかなかった。
右手で光る貴石の重さに、一抹の心の平穏を託して。
紫の綺羅を纏った乙女の肩が、薄水色で装う少女のそれと並んだ頃。
茫々たる蝋燭の灯りの下で、青年と少女は密やかに視線を交わしていた。
『……コッチは、任務終了。無事全員に配れたから、これでちゃんと識別できますよン』
ともに灰色の私民服を纏ったふたりの手の内にあるのは、銀糸で編まれた小さな籠。
その内に詰まった小瓶のひとつをおもむろにひょいと取り上げ、少女は軽く肩を竦めた。
『高濃度の呪力を注ぎ込んで育てた夏蔓薔薇の精油には、真冷水の効果を打ち消す作用がある。これさえつけていれば、巻き込まれることはまずないでしょう。‘支配者’様がふたりもいたから正直ヒヤヒヤしましたけれど……さすがはマリアン様。サクッと終わらせてくれましたネ』
傾いた瓶からわずかに零れた雫が、袖口から覗く細い手首にぽたりと落ちる。
その拍子に広がった涼やかな香りを胸一杯に吸い込み、少女はふと声を低めた。
『……で、ソッチは?』
『……今、配置に付いた』
一拍置いて静寂を侵した憮然たる声に、濃桃色のどんぐり眼が面白そうに瞬きする。
少女の問いに応えたのは、目の前に立つ青年ではなく……彼の頭頂に陣取った一羽の隼。
美しい羽に覆われた姿はしかし、見る者が見れば魔性の存在──それも途方もなく精緻に編まれた呪法の産物と知るに違いない。頭を占拠された青年が浮かべる渋面を知ってか知らでか、金色の目を煌めかせた猛禽は、再びくわりと嘴を開いた。
『お前が合図を出したら、隠し扉から出る。以後は……あいつの指示に従う』
『そこからは、腕の見せドコロ……ってわけデスネ』
『…………』
隼が発した何とも言えない沈黙をするりと躱し、少女はにわかにがばと服を剥いだ。
灰色の布地の下から現れたのは、夜目には鮮やかな……しかしいささか古びてすり切れた薄茶色の絹衣装。高く結った巻き毛とともに長い裾をはね上げながら、少女は思わず苦笑めいた声を零した。
『大丈夫ですって!マリアン様が、手ずから化粧してくれたんでショ?黙ってさえいれば、絶対いけます!たとえ、ちょっとコドモで身長が足りなくても!!』
『余計なお世話だ!お前らこそ、ヘマするなよ。合流地点は……』
『心・配・ご無用!念のため、少し早めに相棒に待機しててもらいますから』
『……アイボウ、ハナシより、カタづケ。ハヤくひろエ』
盛大に脱ぎ散らかされた衣を拾いながら、青年がやや不自然な赤目を気まずげに伏せる。その訴えをあっさりと無視したまま、少女は再び隼へ──正確には、その向こうにいる存在へと向き直った。
暗闇の中で光る濃桃色の虹彩を彩るのは、幾ばくかの緊張と……そして確かな意思の力。
その強さに思わず光った猛禽の両眼を見つめ、少女はゆっくりと一礼した。
『……そろそろ、ワタシ達も仕上げと行きます。あとは、ヨロシクお願いしますネ』
『……お互い、とっとと終わらせようぜ。こんな悪趣味な茶番はな』
ため息を残して羽ばたいた隼は宙を舞い、そして程なく薄暗がりの中に溶ける。
その姿を確認することも無く、少女は勢いよく身を翻した。
規則正しいリズムを刻み始めた足音を、やや乱れたもう一対のそれが慌てて追う。
床に伸びた影を照らす炎の揺らめきは、再び戻った平穏をただ静かに歓迎していた。
双月天心まで、あと半刻。