地を這う者よ 熾と闇より生まれし者よ
我らが勝鬨を聞くがいい
白き女神の息吹に押され 我らはこの空を翔る
闇夜の王のまやかしの翼は 月とともに虚空へと沈み
麗しき恵みの大地は 銀緑の栄光に輝くだろう
〜暁の凱歌——フィルナ西王国年代記 『ヴァラクの戦い』より〜
ふたつの太陽の目覚めとともに、エリアの夜は明ける。 次々と降りていく光の梯子がまどろむ闇を払い、朝風は瞬きする間に木々の間を抜ける。森に薫る涼風は扇状に開けた丘をさかのぼり、やがてその速度を増しながら緩やかな峰へと行き着く。 俗に‘女神のはばたき’と呼ばれる朝一番のこの風は、フィルナ西王国の民の目覚めを促す鈴の音であり、また一日の始まりを告げる朝の挨拶でもあった。 しかし一方、彼女の羽根は、意外に冷たいらしい。 非常にゆっくりとした丘の傾斜の、丁度中腹程──広大な森を一望に収めることができる位置に置かれた物見櫓に立つ青年の肌は、わずかではあるが、風の温度に強張っている。
年の頃は、せいぜい少年と呼ばれる時を少し過ぎた程であろうか。年相応に整った面に輝く瞳は、最高級の紅玉を思わせるように赤い。白む空から取り残された漆黒の髪を遊ばせながら、彼はまんじりともせずに真っ直ぐ前を見つめていた。 どこまでも続くかのような森のはるか先の先は、弱々しい光と灰の色に霞んでいる。その上空に広がる空は東雲にも程遠く、重くたゆたう霧の中にとっぷりと沈んでいた。 いかにも薄ら寒そうなどんよりとした眺めは、春の鮮やかさを知ってしまった目にはどこか応える。その色味は、むしろ真冬の景色を描くにこそふさわしいものだった。 青年が呼吸も忘れたかのように凝視していたのは、無彩の光に包まれた、まさにその場所だった。 固く引き結ばれた唇は、ただの一言も紡がない。代わりに言葉を語っていたのは、不可思議にきらめいては翳る深紅の眼だった。 ある時には仇敵をねめつけるかのように鋭くきつく、しかしまたある時には久方ぶりの故郷を目にしたかの如く柔らかに。 淀みなく注がれる視線に含まれるのは、単なる刹那的な綾ではない。 そこに在ったのは深く……しかし恐ろしく茫漠とした、紛れもない‘惑い’だった。 相反するふたつの色をたたえた光は、静かに瞬き、移ろう。 しっかと胸を張り顔を上げたまま、青年はその場に佇み続けた。 天地を繋ぐ霧が晴れた先に広がるかの地の姿を、その目で確かに見届けるまで。