黎明を駆る者

第10章 灰色の帰り路 1

 日が変わってから降り出した雨はまるで止む気配を見せず、垂れ込めた夜明け前の空をどんよりとけぶらせていた。
 霧雨に包まれた‘月の(きざはし)’に火の気配はなく、豪奢な文机の上で燃える洋灯(ランプ)の小さな明かりだけがゆらゆらと瞬いている。その寒々しい光と早朝の澄んだ静寂の中で、ラチェクは悄然と項垂れていた。
 気遣わしげに眉を曇らせた少女が見つめる先には、繊細な幾何学模様で囲われた大きな張り出し窓と、その枠に優雅に腰を下ろす女主人──セレナの姿がある。モノクロームに近い光彩の中、鮮やかな紫のドレスと銀波の髪が発する光輝は、さながら美しい絵画の一片のように、わずかな(ほころ)びのひとつも見受けられない。しかし、その理知的な表情の下にある確かな影の存在を、幼い私民は恐ろしく明確に感じ取っていた。
 端然と上げられた真白い面の中、澄み切ったの奥底で仄めくのは、淵の底を覗き込んだような絶望と……そしてその全てを焼き尽くさんばかりに蠢く、黒い焔の如き激情。
 その(くら)さ深さは、夜更け前に儀式より戻ってから今の今まで、少しも変わる事はない。あちこちが赤黒く汚れたドレスもそのまま、まんじりともせず座す乙女は、まるで魂を捨てた(いにしえ)の塑像のようにも見えた。
『……姫様』
 一旦小さく息を吐いた私民の少女が、ゆっくり視線を巡らせる。
 窓辺よりも一段と光の落ちた空間の中……その瞳が映したのは、黒一色の軍装に身を包んだ長身の影。
 部屋の隅で佇んだまま深く俯くルスランの貌を、伺う事は出来ない。それでも、彼が纏う刃物のような気配は、少女の胸を塞ぐのに十分たる烈しさを秘めていた。
 昨晩、‘紅蓮月夜(ぐれんづきよ)の間’で起きた変事を、ラチェクはまだ知らない。
 しかし、彼とセレナの間に決定的な亀裂を入れる‘何か’があった事は、幼いその心にも分かりすぎる程によく分かった。
 こちらも彫像のように動かぬ男を逸れた眼差しは、純白の石が敷かれた床を流れ、そして同じく白い天井近くに設けられた小窓へと行き着く。そぼ降る雨に濡れながら重い灰色の中に沈んだ空は、まるで今の彼女の……否、ここにいる全員のやりきれぬ心の(うち)を映し出しているようにも見えた。
 雨はまだ、止む気配を見せない。
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