わが麗しの帝都には、三つの地獄が口を開けている。
ひとつは、北東地区の地下深くに広がるという賤どもの窟。
ひとつは、地領土との境に流れるという毒の川。
これらふたつについては綿々たる悪口を並べ立てたルベス家の令息らは、しかし最後のひとつについては頑として口を開かぬ。
好奇心旺盛なファラン嬢に散々にせがまれた彼らがようやく零したのは、ただの一言。
『命が惜しいのなら、皇宮の西の塔には決して近づかぬこと。あれは、終末の匣──我々の血肉を吸って膨れ上がる、異形の獄よ』
‘終末の匣’ 〜ニュクス・ルイズ著 『帝都綺譚集』より〜
黒い都の中心に建つ皇宮の北庭の奥に、その塔はうっそりと佇んでいた。
皇族が私的な空間のひとつとして利用する東の塔、あるいは先帝の御代には後宮が置かれていたという南の塔といった華麗な尖塔群に比べ、監獄塔──‘ため息の匣’の名で知られる北の塔の外観は、意外な程に味気なく見える。妙につるりとした角塔には装飾らしき装飾もなく、格子のついた窓が申し訳程度に空いている程度。壮麗かつ豪奢な皇宮の中、その圧倒的な地味さ加減は、逆にひどく目を引きつけるものですらあった。
柵のひとつもないその周囲を囲むのは、ただ雨が降り掛かる単調な水音のみ。
人はおろか、生き物の気配そのものがまるで感じられぬその様はより一層寒々しく、最上階とおぼしき場所で揺れる灯火だけが、わずかに色を保っている。
その鬼火のような光を放つ格子窓の内側で、アースロック・レティルはまんじりともせずに膝を抱えていた。
関節までも固く強張った青年の身を包むのは、どことなく薄汚れた、一面の闇。己が腰を落ち着けた床は勿論、壁や床、太く頑丈な鉄格子がはめ込まれた扉まで。何もかもが黒く塗られた石の小部屋はしんしんと冷え、そして殺伐とした空気に満ちている。
雨音を連れた中途半端な静寂にますます沈む心を持て余しながら、アースはゆっくりと空を仰いだ。
遥か頭上で瞬く小さな火は、幼い頃に地下墓所で見たそれによく似ている。嫌な連想にずきりと痛んだ後頭部をさすりながら、彼は再び……否、本日何度目も分からぬ嘆息を零した。
『……ダイジョウブ?』
薄明かりとともに五感を侵した小さな声に、アースが弾かれたように振り返る。
その視線の先で膝を抱えて座り込んだまま、シネイン・ユファスは再びそっと口を開いた。
『……アタマ。気絶する程の勢いで殴られていたけど。痛くない?』
『え……ア、ああ。平気、思ウ。コブ、なったケド』
『……よかった』
拙いルナン語とともに苦笑した青年の言に、少し腫れたシネインの頬がかすかに緩む。
自分が昏倒している間に、一体何があったというのか。少女の纏う薄茶色の装束は相当に汚れ、脚が半ばむき出しになっている。腕や顔にも無数の傷が出来てはいるものの、心身に響くような酷いダメージは、どうやらないらしい。
ここで目覚めてから初めて見た笑い顔に幾分ほっと胸を撫で下ろしつつ、アースはそっと右──シネインが居る側とは反対の壁際へと視線を遣った。
そこに在るのは、上半身を壁に預けて座す、もうひとりの青年の姿。
美しい紫の装束はあちこちが裂け、特に胸の辺りは未だ乾かぬ赤黒い血でべったりと濡れている。薄暗い中でもそれと分かる程蒼い貌を、同じく不吉な赤色で汚したままうつむく彼──否、ハルの気配は、恐ろしく無機的な冷気に満ちていた。
ここへ来てから──少なくとも、アースロックが正気づいてから今の今まで──一度も開かれぬ唇は、今もきつく結ばれたまま。何もかもを拒絶するかのような殺伐たる気は、明らかな負傷故の苦痛ではなく、彼の心の裡でくすぶる‘何か’を体現しているようにも見えた。
刃物のようなその横顔に、アースロックは、何も言えずにうつむくばかり。
再び悶々と膝を抱えた短髪の青年の耳を、ぽろりと零れた呟きが穿ったのは……丁度その時だった。
『…………ゴメン、ね』
はっと振り返ったその先で、短い嘆息の余韻が空しく解ける。
薄い唇をきつく噛み締めたまま、巻き毛の少女は再び小さく口を開いた。
『‘光の槍’の……ううん、ワタシのミスで、こんな事になっちゃって』
『……そンな、違ウ。君のセイ、ナイ』
『……ううん。全部、ワタシのせいヨ』
珍しく──否、かつてない程に消沈した呟き声は、慌てたようなアースのフォローを柔らかに拒む。まるで塩を振られた青菜のように萎れ込んだまま、少女はふとその双眸を伏せた。
『……ここに放り込まれてから、ずっと考えてた。捕まった時、ワタシは、どうしてケレスに反論できなかったんだろう、って』
半ば解けた黒髪で半顔を隠したまま、シネインはどこかぎこちない仕草で肩を竦めた。
『そうしたら……気付いちゃったんだヨ。ワタシは、ワタシのやりたい事を、大義にすり替えて、突っ走っていただけなんだって』
『…………?』
無言のまま眉を寄せたアースロックに視線を返し、シネインはゆっくりと瞬きした。