黎明を駆る者

第10章 灰色の帰り路 3

『大義には必ず、それを奉じるに至ったきっかけがある。立派なものからそうでないものまで、色々ね。ワタシは……多分、その表面しか見ていなかった。この国の未来を守るっていう目的の裏に、どんな思惑やドロドロが潜んでいるのかなんて、考えた事もなかった。ううん……見ようと、しなかったんだ』
『見ようト……しなかっタ?』
『……怖かった、のヨ』
 こだまのように跳ね返ってきた科白の響きにもう一度ため息をつき、シネインは引き寄せた膝をゆっくりと抱え直した。
『ワタシね……ずっと、ひとりで走ってきたのヨ。両親が死んで、家を継いでからの八年間、ずっと。それなりの一族なら、たくさんの係累や補佐役がいたりするんだろうけど……ウチは、知っての通りの弱小貧乏でしょ?助言をくれる人も、頼りになる財もなくて。毎日、バカみたいに忙しかったヨ。それこそ、グレる暇もないくらい』
 ──ヒドい話でしょ。
 そうぼやきつつ笑みを深め、シネインは再び視線を落とした。
『別に、それはそれでよかったのヨ。一族から受け継いだ土地や領民──守らなきゃいけないものを守るのは大変だったけれどやりがいはあったし、実際、それなりの結果も出してきたとは思う。でもね……時々、どうしようもなく不安になるの。ワタシは、ユファスの……ワタシが守るべきものたちの‘(おさ)’として、きちんとできているのかって』
 膝に乗せた顎の少し上で、小さな唇が少しだけ歪む。(いびつ)に咲いた微笑の花は、常の諧謔をたたえながらも、どこか皮肉げな色を帯びていた。
『……貴族の家政は、家長の采配が全て。ワタシ(トップ)が揺らげば、脆い台座は一気に崩れてしまう。そうなれば、領主失格の烙印を押されるだけじゃない。ワタシが守らなければならないものたち全てが、行き場を失うことになる。だから……後ろを振り返ることなんて、出来なかった。たとえ、どんなに気になることがあったとしても、ネ』
『シネイン……さん……』
 情が伴わぬ笑い顔が内包するのは、道化めいた自虐か、あるいはそう見せかけた諦念か。思わず気遣わしげな声を上げたアースロックからあえて視線を外したまま、シネインはひたすら平明な口調で言の葉を継いだ。
『……今回の事も、多分同じ。‘光の槍(エヴァライムズ)’の実情は、見ようと思えばいくらでも見えたはず。でもワタシは、自分が犯すかもしれない過ちから逃げるために、あえてそこから目を逸らした。その結果が……これヨ』
 不穏な音と気配に満ちた薄暗さの中……滔々と紡がれたのは懺悔ではなく、贖罪の可能性すら諦めた告白。
 色を失いかけた唇をさらに烈しく噛み締めながら、少女は再び言の葉を紡いだ。
『……あなたたちには、どれだけ謝っても、謝りきれない。この場で絞め殺されても、文句は言えない。それでも……お願い。これだけは言わせて──ごめんなさい』
 暗く澱んだ雨音は未だおさまる気配を見せぬどころか、より一層勢いを増すばかり。その虚ろな響きの中、小さく丸まるように身を縮めたシネインの姿は、驚く程鋭く……そして強い力でアースロックを揺さぶった。
 フィルナ西王家に生まれたことを自覚した時から抱き続けてきた‘人の上に立つ’という意識と、洋々たる理想。
 しかし、今。広大な帝国の中の、ほんの一部──本人の言葉を借りるなら‘猫どころか鼠の額にもならない’狭小地の領主が見せた絶対的な孤独は、彼の心に雷に打たれたような衝撃を……否、恐怖(・・)を植え付けた。
 冷や水を浴びせかけられたかの如くおののいた腕が、石壁に当たって耳障りな音を立てる。
 突如四肢を支配した戦慄の中、アースロックの脳裡に閃いたのは、己が負うものに対する今更ながらの責任の重さと……そして一片の惑いも見せずに立つ、高潔な父王の背だった。
 呆然と凍った青年を何と捉えてか、項垂れたシネインが、再びそっと睫毛を伏せる。
 煙雨と沈黙の中に沈みかけた空気を、すんでの所で引き上げたのは……しかし、少女のため息ではなかった。
『勘違い……するなよ』
 酷く掠れた嗄れ声に、アースとシネインが弾かれたように顔を上げる。半ば驚き、半ば不安を秘めた二対の視線を捉えたまま、ハルは血で汚れた蒼い貌をゆっくりと上げた。
『俺達は、お前の……理想とやらに、共感して、ついて来たわけじゃ、ない。俺達の目的のために、お前を、利用しただけだ。だから……謝られる、いわれはない。お前を、責める筋合いも』
 打たれた胸が痛むのか、時折間を挟みながら紡がれる科白に色はない。死人のような仏頂面をぴくりとも動かさず、ハルは淡々と言葉を紡いだ。
『だから、お前が、気にすることは、ない。こうなったのは……ただ、俺達の──俺の、力不足のせいだ』
『…………』
 何かを言いかけて口籠ったシネインを置き捨て、ハルは強く拳を握り締めた。
 ぎりぎりと音を立てた右手を覆う冷ややかな護りは、しかし今やどこにもない。捕われた時に引き剥がされでもしたのか、馴染み切った手甲(ガントレット)を失くした腕は、暗闇の中でもそうと分かる程、不穏な違和を纏っていた。
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