黎明を駆る者

第9章 灰色の帰り路 5

『…………!?』
 ──一体、いつの間に!?
 おもいきり後退ったシネインとアースに挟まれたハルの視界に映っていたのは、まるで幻術の如く身を顕した、背高い騎士だった。
 すらりと伸びた全身を包むのは、恐ろしく古風な灰色の戦装束と外套(マント)。顔があるべき場所もまた、同色の兜で隙間なく覆われている。
 己に向けられる視線の色を知ってか知らでか、無彩色だけを纏った闖入者は自ら別世界へと蹴り飛ばした男へと事も無げに近づき、その腹の辺りを素早くまさぐる。程なくして差し上げられたその手の内には……ベルトごと引きちぎられたと思しき、鍵の束がしっかと握られていた。
『いっ……!?』
 再びびくりと後退したアースの前で、頑丈な鍵がゆっくりと外れる。そのまま音もなく滑り込んできた灰色の影は、悠然たる歩みで三人に近づき……そして、ハルの目の前で静かに立ち止まった。
 立ち竦む青年を射る圧は、敵を追い詰めんとする武者の冷ややかな闘気にも似ていて。その強さにたじろぎながらも、真っ直ぐに顔を上げたハルの視線をどう捉えたのか。表情のない面をすいと背けた長身は、無駄のない動きで踵を返し……そして、開け放たれた格子扉を出る直前で、再び背後を振り返った。
『……ついてこい……っていうこと?』
 おずおずと紡がれた少女の声に、答えはない。
 思わず顔を見合わせたシネインとアースの惑いを知ってか知らでか。細く一呼吸したハルが、ゆらりと紅い双眸を絞る。胸を突く激痛に半ば歪んだ視界の中、己を捉えたまま微動だにせぬ無貌の仮面にはしかし、如何なる(よこしま)な害意も……そして、からかいめいた嘲弄もなかった。
「お、おい……!?」
 幾分ふらつきながらも前に進み出た従兄弟に、アースが思わず声を上げる。その横で息を詰めたシネインの気配をするりと躱し、ハルは掠れてなお鋭い声を紡いだ。
『……行くぞ』
『で……でも、ハル様……!』
『ここにいたところで、どの道、後はねぇ。拷問部屋行きよりは、罠の方がまだマシだ。それに……』
 一度言葉を切ったハルが、再び静かに目を細める。鮮やかな虹彩の裡にぎらついた闘気をたたえながら、彼はかすかに口の端を上げて見せた。
『仮に罠でも、やる事は同じだ。たとえ少々、手荒い方法をとることに、なってもな』
『…………』
 唖然たる二対の視線を従えた啖呵に、兜の向こうの貌は一体何を思ったのか。
 相も変わらぬ沈黙とともに翻された灰色の外衣が、澱んだ空気をばさりと刷く。まるで挑戦状を叩き付ける様にも似たその動止を、不敵な面持ちで見据えながら、ハルはゆっくりと一歩を踏み出した。



 重く湿った空気の下を、ひたりひたりと足音が往く。
 酷く不安定な地面に気を取られそうになりながら、ハルはただ黙然と歩みを進めていた。
 不安な程に暗く低い視界の中ではっきりと映り込むのは、岩盤も露な荒い土壁のみ。濃密な土の香りと冷たさとを漂わせるそれはしかし、思いのほか固く……そして青年が進むに十分な空間を枠組んでいた。
 皇宮本殿に付属する‘北の塔’の地下に潜って、一体どれほどの時が経過したのか。
 編み目の如き隘路を通って辿り着いたこの地下路の行く先を、ハルは知らない。それどころか正確な現在位置すらはっきりとしない状況の中、彼に出来たのはただ、速度を落とさず歩むことのみ。時折咳とともにこみ上げる鉄錆の味に歯を食いしばりながらも、ハルは前を往く背高い影から気を逸らすことなく、ひたすら脚を動かし続けていた。
 その状況は、彼の後に続く他のふたりも同様のようで、硬い緊張を孕んだ……あるいは躊躇いがちに鳴る足音が、やや遅れて地下路の空気を震わせている。
 まるで小鼠の如く随行する己らを、一体どう捉えているのか。ごく小さな洋灯を手に、無言のまま進み続ける目の前の姿は、さながら彷徨える亡者を導く死神のようにも見えた。
 緩やかに傾斜の就いた荒い路は、澱んだ空気を孕みながら下へ下へと続いていく。
 何度か足を取られそうになる同行者──実際、シネインは二度、アースロックは四度程派手に転倒していた──に気づかぬはずもない先導役の歩調は、しかしなおも緩まぬまま。
 その歩みが、ついに……そしていささか唐突に止まったのは、行く先がふたつに別れた三叉路の中程に出た、丁度その時だった。
『……どッチ、行ク……?』
 目の前でぽっかりと口を開けた二路は、概形はおろか、一寸先すら見えぬ有様。人形のように動きを止めた灰色の影に、アースロックがふと呟きを漏らす。不安げなその調子を知ってか知らでか、相も変わらず冷然たる雰囲気を纏ったまま、灰色の長躯はおもむろに腕を掲げた。
 その先で軽く振られた洋灯の光が、闇夜を彷徨う鬼火のようにゆらゆらと踊る。
 刹那。ハルの五感を侵したのは……どこかで空気が大きく蠢動する気配だった。
 はっと見開かれた紅玉が真っ直ぐに射たのは、先程捉えた左側の暗路。黒に沈んだその先でかすかに起こった風の流れは、瞬きする間に数(けん)を飛び……気がつけば、青年の眼前にその存在を顕していた。
『……!?』
 息を詰めたハルの鼻先を掠め、冷えた空気がぶわりと流れる。その遥か頭上から、まるで睥睨するように彼を捉えていたのは……地下天井を覆うが如く首をもたげた、白銀の龍だった。
 底なしの蒼さを湛えたその瞳子(どうし)は刻一刻とその濃淡を変え、いつか見た燐水晶(りんずいしょう)のように不可思議な明滅を繰り返している。暗闇の中に在ってもはっきりと分かる鮮やかな彩は、長くうねるその身を覆った金剛石の鱗と相まってか、さながらそれ自体が光を放っているかのようにさえ見えた。
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