黎明を駆る者

第10章 灰色の帰り路 9

 帝都ランスは皇宮の、地下五層──通称、‘真理の(きざはし)’。
 ルナン帝国において最も深く静謐な場所に、その部屋はひっそりと存在していた。
 完全な半円形にくりぬかれた空間は、地上にある広間の数々に較べればごくごく狭く、天井も決して高くはない。しかしながら、構成面の全てを水晶で覆い尽くしたそのしつらえは、豪壮な大広間とはまた違った静謐な美に満ち満ちていた。
 皇家の家章(シンボルカラー)たる(あか)は勿論、色という色の一切を排除し尽くした半球の中心に在るのは、ただひとつ──同じく水晶を彫り上げた、光り輝く玉座のみ。
 全ての色彩の頂点に立つ者が君臨する地の奥底に造られた、無色透明の至高座。
 そして、今。かくも絶対的なその只中には、ともに赤と黒とを纏ったふたつの姿が、うっそりとわだかまっていた。
『……小鳥が、逃げたよ』
 光り輝く玉座の下にしどけなく腰を下ろしたまま、少年──否、ケレス・ヒルズはゆっくりと口の端を上げた。
『籠を壊して、東の彼方へ消えちゃった。折角、遊んであげようと思ったのに。全く……誰も彼も、困ったものだよ』
 愚痴にも似た言に応じたのは、濃霧の海を思わせるような沈黙と……そして赫の視線。その持ち主たる男──即ち、水晶の座に身を委ねたこの国の治者は、己が膝下で(さえず)る臣下を見下ろしたまま、ただの一言も紡ごうとしない。
 艶やかな……しかしどこか冷々と醒め果てたその表情を知ってか知らでか。どこまでも悪戯めいた苦笑を浮かべながら、ケレスは再び口を開いた。
『おかげで、僕は大負けさ。あなたには例の如く出し抜かれてしまうし、辛うじて獲った戦利品(・・・)には嫌われてしまうし。踏んだり蹴ったりとはよく言ったものだよ。もっとも……』
 どこか大仰にも聞こえるため息とともに、少年がふと肩を竦める。愛らしく整ったその顔には、右の眼を覆い隠すようにして、翡翠色の眼帯が巻かれていた。
『……腕慣らしも、ここまでだけれどね』
 詠うが如き笑声は水晶壁に弄ばれて音質を変え、ざらりとした余韻の糸を引いて沈む。その(もと)でなおも沈黙を保つ男を斜め下から捉えたまま、ケレスはするりと眼を細めた。
『盤は整い、役者は揃った。随分と時間はかかったけれど……いよいよ、本当のゲームが始まるんだ。あなたの……ううん』
 緑衣の袖からか細く伸びた白い腕が、幾重にも刺繍を重ねた帝衣の膝にそっと掛かる。その不敵なほどに大胆な動きに、気づいているのか、いないのか。それでも動かぬ帝の膝に、どこか猫めいた仕草で上体を(もた)せ掛けながら、少年は再び言の葉を紡いだ。
 ──僕たち(・・・)の、ね
 緩やかにたわむ黒絹を辿り滑ったケレスの右手は、やがて玉座の肘掛けを這いのぼり、ついにはその上に置かれた尊き繊手へと至った。
『もうすぐ、だよ』
 含み笑いにも似たため息とともに、少年はゆっくりと帝の手を握った。
『もうすぐ、全てが、終わる。堂々巡りの陣取り合戦も、空虚な権謀術数も……全部消え去って、全き姿に戻るんだ。そうすれば、きっと果たされるはず。あなたの……宿願が』
 応じる気配のない主を知ってか知らでか、ケレスはただ朗らかに(わら)う。その貌に恐ろしく自然に貼り付いていたのは……まるで夢見る乙女のような微笑だった。
『あなたの百年の退屈も、これで終わる。その時、ついに叶うんだ。僕の、望みも……』
 うわ言にも似た口舌を紡ぎながら、少年はそっと目を伏せ……そのまま、一切の動きを止めた。
 はるか頭上でさざめく雨の音も、ようやっと迎えた曙の光も届かぬ、水晶の箱庭で。
 沈黙の海に沈み込んだその姿は、まるで一幅の聖画のようにも……あるいは、美しい幻がつかの間見せた、幸福な夢のようにも見えた。
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