黎明を駆る者

第10章 灰色の帰り路 8

『自分でも承知しているとは思うが、ここに残れば、お前は間違いなく西の塔で打ち首だ。正直、私はそれでも──いや、むしろ全く構わないのだが、こちらにも都合があってな。今回に限り、見逃すことにした。お前が、ある条件を呑むならば、だが』
『じょ……条件?』
()を、ルナン(ここ)から連れ出すことだ』
 硬さの残る視線と科白が示したのは、フィリックス自身の傍らに控える龍の背中──正確には、その上に力なく乗り上げた黒衣の影。ぴくりとも動かぬその姿から視線を外し、女騎士は再びシネインへと向き直った。
『我等同様、そう簡単には死なぬ性質(たち)故、辛うじて生きてはいる。お前と同じく、ここで死なねばならない(・・・・・・・・)者のひとりだ』
『死なねばならないって……っととと!』
 ぶれにぶれた情けない疑問符を、至近距離から投擲された小さな(つぶて)が切る。慌ててつんのめった少女の悲鳴を知ってか知らでか、フィリックスは相も変わらず怜悧な声を紡いだ。
『……彼の持ち物だ』
 手の内をそろそろと覗いた少女の視線を捉えたのは、優美な細工で形作られた白金の指輪。そこにはめ込まれた大粒の青玉(サファイア)──即ち、どこまでも深く濁りのない瑠璃色(・・・)の輝石をみとめたシネインを、駄目押しのような警告が打った。
『この国随一の呪法士が扱う、魔道の品だ。間違っても使おうなどと考えるな。お前の呪力容量では、一瞬で干上がる(・・・・)ことになる』
『え、ちょ……彼、って……え、えええええええ!?』
『……まあ、そういうこった』
 目を剥いて絶叫した少女を、割って入ったレジェットの嘆息がやんわりと制した。
『今回のことは、俺らも納得がいってねぇ。このままじゃあ、寝覚めが悪くてかなわねぇのよ』
 ますます顔色を失くしたシネインを醒めた眼差しで捉えながら、フィリックスは駄目押しのように断言した。
『彼を連れて、ともに国を出ろ。無事保護した上で全てを説明し……納得させること。これが、条件だ』
『納得させるの!?どうやって!?っていうか、その前にワタシ()られちゃうんじゃないですかソレ!!』
『無理なら北の塔に戻す。明日には、西の塔だ』
『冗談でしょォォォォ!?』
『本気だ』
 泣きそうな勢いで顔を上げたシネインを知ってか知らでか。顔を擦り寄せてくる龍を愛しげに撫でるフィリックスの気配は、嫌味なまでに平明だった。
『……時間がない。返答がないのなら、このまま引き立てるが』
『分かりました!分かりましたよォォ!!何とかします!だから出してください!!』
『……ということだ。早く乗れ』
 事も無げに肩を竦めたフィリックスが、相も変わらぬ端然さでハル──さすがの彼も、今回ばかりは呆然と成り行きを見守るほかなかったようだが──を促す。
 若干もの言いたげに瞬きした紅玉の瞳に、傍らの大男がにやりと笑った。
『……聞きてぇことは山とあるだろうが、我慢しとけ。とばっちり、喰らいたくなかったらな』
『……ああ』
『……よし、行け』
 頷いたハルの背中を叩いて促し、レジェットは素早く視線を翻した。
『そっちの坊主は、鞍帯(くらおび)をしっかり締めろ。ちょっとでも緩んだら、冗談抜きで死ぬぞ』
『は……ハイ!承知しマしタ!!』
『返事はいいから、早くしろ。あと、ちっこい嬢ちゃん!お前はそいつ(・・・)を支えて乗ってくれ。一応怪我人だから、気をつけてな。落っことしたりしたら、後でブッ殺されるぞ』
『分かってます!分かってますから、これ以上圧をかけないでください!!』
 ハルとアースロック、そしてシネインがそれぞれ無事に乗り終えたのを見届け、フィリックスが騎獣の腹を軽く叩く。刹那、体を起こした龍の背から伸び上がったのは、まるで薄衣を張ったように煌めく、水晶の翼だった。
『虹晶龍は、やわ(・・)な騎獣ではない。二、三日は余裕で(かけ)続ける。万全を期すのなら、目的地までは降りぬことだ』
 鈴鳴るような音とともに広げられた皮膜が、澱んだ地下道の空気を大きく揺らす。
 その風に煽られて立つ長身を視界の隅に捉えながら、ハルはゆっくりと瞳を絞った。
『気をつけろよ。途中で、落っこちるんじゃねぇぞ』
『幸運を祈る』
 悠然と立つ‘支配者’達が纏うのは、長じた者としての悠然たる余裕か。あるいは、懐古にも似た惜別か。
 どこまでも穏やかなその視線を真っ直ぐに受け止め、ハルは手にした手綱を強く引いた。
『……この恩は忘れない』
 はっきりと己を射た紅玉を見返し、レジェットが苦笑とともにひょいと手を振る。早く行け、と言わんばかりのその仕草を硬い表情で捉えたまま、青年は再び口を開いた。
(つぎ)に会う時、借りは必ず返す。父上の……ハラーレ・ヴァイナスの名に懸けて』
『…………!!』
 一瞬瞠目したレジェットが思わず息を呑んだのは、龍が力強く地を蹴る、まさにその瞬間だった。
 細く長い音とともに一気に流れた空気の(かい)が、まるで旋風のように地下道を駆ける。その残滓がふわりと吹き抜けた時……薄暗がりの中には、ただ茫漠とした空間だけが残されていた。
『……次、か』
 散々に吹きまくられた外衣をはね上げ、フィリックスはため息とともに言の葉を零した。
『ハラーレによく似た阿呆面も見納めと思っていたが……そうもいかぬようだ』
『仕方ねぇさ。何せ、あいつのガキだからな』
 恐ろしく端然たるぼやきに苦笑しながら、レジェットはひょいと広い肩を竦めた。
『次があると言うなら、折れちゃいねぇよ。どれだけボコボコにされようが、何度でも向かってくるだろう。てめぇの気持ちに、きっちり落とし前を付けるまではな』
『……親子揃って、難儀な性分だ』
『……違いねぇ。似なくていいところまで、よく似てやがる』
 相も変わらず平明なフィリックスの科白に、レジェットがくつくつと喉を鳴らす。野生の獣めいたその忍び笑いを、一体どう捉えたのか。かすかに双眸を絞った風の‘支配者’は無言のまま、無駄のない動作で身を翻した。
 それに倣って踵を返しかけた大男が、一瞬、ふいと背後を見遣る。
 暗く荒涼たる地下道へと投げられたその視線はしかし……その貌とは裏腹に、茫としたうら寂しさに覆われていた。
『だからこそ……滅入るぜ。なじみの首姿を見るのは……もう、ご免なんだがね』
 皮肉にも似た言葉と吐息に応じたのは、例の如く、夕凪のように平明な沈黙。
 それきり口を閉ざしたふたりの‘支配者’は、ただ静かに歩を進め続けた。
 その胸に、旧き思い出と……そして、新たな憂いを抱えて。
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