黎明を駆る者

第10章 灰色の帰り路 7

『虹晶龍は、一日に万里を駆けると言われる。進路さえ取れれば、半日とかからず‘入らずの森’を抜けられるだろう。注意すべきは、不用意に高度を下げぬこと。こやつらは空にいれば目立たぬが……地上では、そうはいかぬからな』
 元は彼女の騎獣であるのか、喉を鳴らして頭を下げた龍の首を優しく叩き、フィリックスはため息とともに肩を竦めた。
『残念なことに、我々は‘森’の向こう(・・・)の事情には明るくない。故に、後のことは、お前達自身で対処してもらうほかない。一応、最もよく訓練された一頭を選んだつもりだ。よもや扱いに困ることはあるまいが……』
『まあ、大人しく乗ってりゃあ大丈夫だろうよ。ただ、とにかく速ぇからな。振り落とされないように、せいぜい気をつけな』
『……ちょっと待て、待ってくれ……!』
 戸惑いも露な嗄れ声に、くだけた会話がふつりと途切れる。ふたり揃って己を見遣った‘支配者’らへとふらつくように詰め寄りながら、ハルは再び科白を紡いだ。
『あんたたち……自分が、何を言っているのか、分かっているのか……?』
 今更ながらの問いかけに、背高い男女はただ平然たる気色で佇むのみ。
 その一方で、彼らの面を真正面から射抜いたハルの瞳は、さながら不可視の存在を目にした者の如き動揺と……そしてある種の疑念にひび割れていた。
『自分が、何をしようとしているのか……分かって、いるのかよ……!?』
『おうよ』
 あっさりと返された明確な答えに、紅玉の瞳がさらに大きく見開かれる。驚愕を隠すこともできずに棒立ちしたハルを事もなげに見下ろしたまま、レジェットはひょいと逞しい肩を竦めた。
『はっきり言った方がよけりゃあ、言ってやろうか?ここから出て、フィルナへ戻れ……ってな。ハラーレ=ラィル』
 やや苦笑じみた嗤いとともに零れた科白は、相も変わらずからりとした爽やかさに溢れていた。
『お前らがしでかしたことは、重罪だ。それについては、同情する気も許す気もねぇ。だがな……こっちにも、色々事情ってものがあるのさ』
『事情……?』
『……約束、したのよ』
 派手な袖に包まれた腕をおもむろに組み、火の‘支配者’はふと柔らかな吐息を零した。
『俺もフィリックスも、お前の親父とは古くからの馴染みでな。ガキの頃からずっと、ほとんど腐れ縁みたいにつるんでたのさ。戦場では何度も背中を預けたし、散々バカ騒ぎもした。そいつに……最後に、言われたんだ。もしも会うことがあるなら、てめぇの息子と娘をよろしくってな』
『…………!!』
 再び声を失ったハルをしっかと見つめたまま、レジェットがかすかに口の端を上げる。からかいとも余裕とも取れぬ曖昧な微笑は、しかしどういうわけか酷く穏やかな哀愁を帯びているようにも見えた。
『大体、状況からして無茶苦茶だ。いきなり敵の女と失踪したと思ったら、いきなりひとりで戻ってきてよ。クソ気味悪ィ牢獄にぶち込まれて、散々拷問されて。ズタボロで、ひでぇツラしてたくせに……お前らのことを話す時だけ、幸せそうに笑いやがるんだ。だから……俺も、つい言っちまったんだよ。任せろ、ってな』
 ただ呆然と紅玉を揺らす青年の肩を、大きな手がそっと掴む。その仕草が意味するのは、激励めいた(はなむけ)か。それとも、懺悔の殻を捨てきれない切なる希求か。どちらとも取れぬ感情の欠片はしかし、散々に乱れたハルの心の裡の襞に、驚く程すんなりと染み込んできた。
 目の前で微笑(わら)う男の思いが向かうのは己ではなく、その血と姿に宿る今は亡き影。
 その根底にあるのは、行き場のなさを自覚しながらも、どうにも止まらぬ鈍い疼き。
 懐旧と後悔の狭間で揺蕩う喪失の痛みは……この五年間、ハル自身が抱えてきたそれと、哀しい程によく似ていた。
『……じき、上は大騒ぎになる。俺達ももうここにはいられねぇ。これが、最後のチャンスだ。だから……行け。行って……俺の約束を、果たさせてくれ』
『あんた……』
『……レジェットだ。レジェット・ジャルマイズ──‘炎の剣(スライヴァルアーク)’よ。覚えておいてくれ』
 複雑な綾を抱えながらも真っ直ぐ己を見返した紅玉(ルビー)に何を見たのか、浅黒い貌を綻ばせた大男が、今一度ハルの肩を叩く。一見ぞんざいなその一撃には、溢れるような包容力と……そして、覚悟が込められていた。
『セレナのことは心配するな。何をおいても絶対に守り切る。そこは、俺達を信じてくれ』
『……分かった』
 やや硬い表情ながらもはっきりと応えたハルに首肯を返し、レジェットが素早く頭上を仰ぐ。それに応じるかの如く身をもたげた騎獣を制しながら、彼はふとハルの後方──即ち、アースロックの方へと視線を飛ばした。
『お前らも、いつまでも固まってるんじゃねぇよ。そろそろ本当に時間がねぇ。早く乗れ』
『え……デも、ソノ……っ!!??』
 半ば上擦ったアースの疑問符はしかし、おかしな雑音を残して唐突に途切れる。
 目を白黒させて飛び上がった青年に代わり、そろりと(いら)えを返したのは……彼の真後ろから伸び上がるようにしてその口を塞いだ、濃桃色(こいももいろ)の目の持ち主だった。
『あのー……ひとつ、いいですか?』
『あァ?』
 暴れるアースロックを意外な力強さで抑えながら、シネインはおずおずと瞬きした。
『それって……ワタシも見逃してくれる……っていうコト?』
『あー……。そのことなんだが……』
『交換条件だ』
 ぽりぽりと頭をかいたレジェットの科白を引き継いだのは、それまでじっと黙していたフィリックス。再び竦み上がった少女を見下ろしたまま、女騎士は淡々と科白を紡いだ。
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