我が親愛なる知者、ザカリア=ザック・モーブ師よ。
湿った夜の帳が降り、東の七つ星が昇り切った丁度その頃、私は確かに見たのです。
カラムの南端にそびえる‘三姉妹の丘’の遥か彼方、藍の絵の具を流したような空に、七色に光る何かが昇っていくのを。
たなびく薄雲のような彗星は、妖しい輝きを保ちながら、東へ東へと進んでいきました。
あれはランドーの戦の前、アラダ征討王が目にしたといういにしえの瑞兆でしょうか。
それとも三十年前、北に赴く‘ルナンの死神’と伴に顕れたという不吉の標でしょうか。
かの魔帝が我等の女神を蹂躙せんとする今、この浅学の身に、此度の星読みは身に余る重荷であります。
我らがレアルの宮廷術師が誇る知者よ。
願わくば、この手紙が貴殿の目に留まらん事を。
そして、この不肖の弟弟子に、その知恵を授けん事を。
フィルナ西王国 カラムの地より
ハリク・ヘラー 拝
ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の火が、色の褪せた漆喰壁を柔らかな色に染める。
その控えめな彩と温度に暖められた卓の上に並んでいたのは、大小様々な皿に盛られた‘針鼠亭’ご自慢の料理の数々だった。
湯気を立てる羊肉のシチューに、ちしゃと水菜を和えた簡単なサラダ。蕪と乾燥肉の煮込みに、干魚とジャガイモのオムレツ。果ては砂糖を絡めた木の実の飴菓子や、ベリーを焼き込んだ大ぶりのタルトまで。
もてなし用と言うよりも‘有り合わせ’の感が強い皿の中身は、しかし今やほとんど空と化している。
その原因──正確には、卓の中央に陣取ったふたりの人物を見つめたまま、ヴィスク・ベルは半ば呆れたように嘆息した。
「……もう少しゆっくりお食べなさいな。そんなにしたら、喉に詰めちまいますよ?」
「ふぁ、ふぁい!!」
苦笑じみた科白にがばりと顔を上げたのは、右手に匙を、左手にパンを鷲掴んだ銀髪の青年。
その横では、両手にフォークとナイフを握ったまま卓に伏した少女が、この上なく幸せそうな顔で寝こけている。
頬に付いたベリーやパン屑もそのまま、すやすやと寝息を立てるその姿は、どこにでもいる町娘──あるいは冬眠中の栗鼠──にしか見えない。ただ一点、強烈な異彩を放つ射干玉の黒髪を興味深げに見遣りながら、ヴィスクはひょいと豊かな肩を竦めた。
「心配しなくても、料理はまだありますから。それよか王子様、右のほっぺにソースが飛んでますよ?」
「え!?どふぉです……!?」
「ほら、言わんこっちゃない」
先刻の懸念が現実となったのか、短く呻いたアースロックが、目を白黒させて胸を叩く。
その様子に再び苦笑を漏らしながら、ヴィスクはふと後ろを振り返った。
「……あんたは、いいのかい?」
「…………」
気遣わしげな一瞥に応じたのは、億劫そうに細められた紅玉の瞳。
賑やかな食卓からやや離れた壁際に置かれた、長椅子の上──大きなクッションに深く背中を預けたまま、ハルはただ沈黙だけを投げてよこした。
柔らかな火影の中にありながらも、その顔はそれと分かる程の蒼味を帯びてげっそりと褪せている。大きく開いた襟元から覗く包帯の白には、よくよく見れば、錆をぶちまけたかの如き不吉な彩が点々と浮かんでいた。
「食事が入らないなら、薬湯だけでも飲んだらどうだい?酷い顔だよ」
「……いらねぇ」
「だけど、丸二日ほぼ飲まず食わずなんだろう?それじゃあ、治るものも治らないよ?」
「放っておきな、おかみ」
心配の度を増したヴィスクをさりげなく制したのは、やや間延びした男の声。
どこか苦々しげに上がった深紅の視線の先で、長椅子の横の木戸──奥の寝室に続く扉がぎいと開いた。
「手術の直後だ。ヘタに飲み食いすると、余計しんどくなる。放っとけ放っとけ」
「でも、モーブさん……」
不安げな科白にひょいと肩を竦めたのは、白いローブを纏った、小柄な男。
見たところは、二十代の後半か。鳥の巣のようなぼさぼさ頭に分厚い眼鏡という風貌は、ただでさえ印象の薄い顔立ちをさらにぼんやりとしたものにしている。ひょろりとした肩に懸かった若草色の帯は、彼がフィルナ西王国の宮廷に出仕を許された高位の呪法士──即ちルナン帝国で言うところの‘貴族’に相当する存在であることを示していた。