黎明を駆る者

第9章 囚われた心 1

 重なり合った二つの月が、名残惜しげにその身を離そうとしていた頃。
 レジェット・ジャルマイズは、目の前の光景をただ呆然と見つめていた。
『何だ……こりゃ……』
 我知らず漏れた呟きは、極彩の広間を靄のように包んだ甘やかな煙の中に溶けた。
 深紅の(へき)に藍銀の天、そして純白の敷石。つい数刻前まで溢れる程の美と色彩を誇っていた‘紅蓮月夜(ぐれんづきよ)の間’は今や、どこもかしこもが酷く毀れ、鮮やかな瓦礫の園と化している。あちこちに屍の如く倒れ臥した貴人達が零す呻きは、その有様をより一層無残に際立たせていた。
『フィリックス……?』
 思わず息を詰まらせたレジェットの視界を掠めたのは、つい先程別れたばかりの赤紫の影。しかし、その見慣れた後ろ姿は、明らかにおかしかった。
 へたり込むように崩れた体は子供のように縮こまり、不規則な震えにただ揺れている。長大な戦斧を軽々と振り回していた右手は青ざめて凍りつき、床に縫い止められたまま。そのすぐそばには、半ばあたりで真二つに折れた(・・・・・・・)薄水色の扇が、美しい死骸のようにうち捨てられていた。
『フィリックス!!』
 己の呼びかけにも反応するそぶりを見せぬその姿に、ただならぬものを感じたのか。短い舌打ちを道連れに、レジェットは躊躇う事なく白煙の中に飛び込んだ。
『おい、どうした!何があった!!』
 唐突に肩をつかんだ逞しい腕に、フィリックスは一瞬びくりと身をはねさせ……そしてゆらりと面を上げる。鋼のような黒髪に縁取られたその貌を、ようやく目にしたその刹那、レジェットは思わずはっと息を呑んだ。
『……が……た』
 すっかり血の気が引いた頬を止めどなく流れるのは、鮮やかな紅眼から零れるぬるい雨。
 引きつりきった面の中、惚けたように瞠られたフィリックスの双眸は、レジェットがかつて見た事も無い驚愕と……そして恐怖にひび割れていた。
『奴が……来た。双月の……力を使って……。奴が……』
『奴……?』
 目の前の男の姿をようやく認識したのか、ゆっくりと焦点を結んだ紅い瞳を瞬かせたフィリックスが、呻きにも似た細い声を零す。そこに宿る狂気にも似た惑乱を鎮める術も持たぬまま、レジェットはただ鸚鵡返しのように問い直すほかなかった。
『セレナは……連れて行かれた。リーズ公も、もう……。次は、私の番だ』
『……何だって?』
 茫々と周囲を揺蕩う煙と香気の中、耳を叩いた科白は、男の正気を一気に浮上させた。
『奴は……やはり、私を憎み、恨んでいた。私は……私、は……!』
『フィリックス!しっかりしろ!!一体、誰だ!誰がセレナを連れ去った!?』
 うわ言のように呟き続けるフィリックスを今一度強く揺すぶり、レジェットが思わず大声を放つ。それでも還らぬ同僚に、男がいよいよ焦燥を募らせた……その刹那。
 彼の耳を叩いたのは、彼が予想だにしない声だった。
『亡霊……だよ』
 弾かれたように振り返ったその先で、赤黒く染まった薄い唇が歪む。
 微かな笑声とともに再び零れたボーイソプラノには、相も変わらず悪戯な響きがあった。
『五年前、君達の前で首を失くした‘死神’の亡霊。彼女には、少し刺激が強過ぎたかな?』
 真っ白な視界の中でひらひらと踊ったのは、あちこちがひどく引き裂けた血染めの緑衣。
 言葉も継げずに瞠目した男を傲然と見下ろしたまま……幼げな声の主は、うっそりとした貌で笑った。
『こんばんは。探し物(・・・)は、見つかったかい……ねえ、レジェット?』
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