黎明を駆る者

第9章 囚われた心 2

 鬱蒼と茂る月桂樹の狭間を、固い蹄の音がひたすらに駆ける。そそり立つ並木の壁が凄まじい勢いで目の前を通り過ぎていく様を、セレナはただ茫とした心地で見つめていた。
 風のように疾駆する黒駒に揺られ、どれほどの時が経ったのか。頬を裂くような夜風に煽られ続けた身は既に、その冷たさに凍えかけている。
 唯一温もりを感じられるのは、己を横抱きに支える男の躯の感触のみ。触れ合う右半身からじわりと伝わるその熱に、我と我が身を委ねたまま、乙女はゆっくりと顔を上げた。
 月光を受けた翠緑玉(エメラルド)が映し込んだのは、血に塗れた貌の中で明明と燃え立つ紅玉(ルビー)の瞳。
 身に纏う紫衣の半ば以上を赤黒く染めたその有様はまさに‘死神’の(あざな)さながら、怖気を震うような禍々しさに満ちている。しかし、混迷の大広間を抜け、皇宮本殿を飛び出してから今の今まで……その気配は、驚く程に穏やかだった。
 鋭い線を描く鼻梁も、夜空を刷く黒い髪も、そして紫の手甲に覆われた温かい腕も。
 記憶の中の‘彼’と寸分も違わぬその姿はしかし、全くの別人のようにも見える。
 それは、己の願望が招いた幻像か、それとも捨てたはずの妄執が見せた蜃気楼の果てか。
 不可思議な違和の意味をはかりかねながらも、セレナはそっと……しかしきっぱりとした口調で言の葉を紡いだ。
『…………?』
 儚い声はあえなく風に溶けたのか。その意味するところを拾い損ねた眼が、ようやく乙女に視線を合わせる。
 微かに揺れた紅い虹彩を真っ直ぐに捉えたまま、セレナは再び細い声を零した。
『下ろして……下さい』
 虚をつかれたように瞠目した男の逡巡は、それでも時間にしてみれば僅かなものだった。
 手綱を握る両の手にかかった力に、馬がその脚をゆっくりと緩める。
 月桂樹の並木道から逸れた蹄はそのまま鬱蒼たる脇道へと入り、八角の屋根を戴く四阿(あずまや)の前でぴたりと止まった。
 横乗りの姿勢から美しい所作で下馬した乙女を、長衣の裾を翻した男が音も無く追う。
 夜気に混ざった戸惑いにあえてその背を向けたまま、セレナは静かに言葉を紡いだ。
何故(どうして)……ですか?』
 か細く響いたその一言は、しかし驚く程に強烈な刃を含んでいた。
『何故……来たりなど、したのですか?』
『…………!?』
 一瞬大きく動揺した背後の気配は、しかしそれでも沈黙を守るのみ。
 その意図を知ってか知らでか。小夜啼鳥(ナイチンゲール)の囀りのような声は、理路整然と夜を(さば)いた。
『紅蓮月夜の間で行われていたのは、この国の儀礼の最たるものでした。国家の祭礼に(きず)を付けるという事は、国そのものを侮辱するのと同じ事。ルナン貴族たるあなた(・・・)が、それを知らない筈がない。それなのに……!!』
 我知らず震え始めた細い手指を、封じるように押さえ込む。
 相も変わらず口を閉ざした男を置いて、セレナはきつく唇を噛んだ。
『分かって……いるのでしょう……?』
 微かな衣擦れの音と、そして足音に応じた声は……セレナ自身が驚く程に掠れていた。
『私は、自ら望んでここ(・・)に来たのです。それがどういう意味を持ち、どんな結果を招くかも全て承知した上で、紅蓮月夜の間に立ったのです。なのに……それなのに……!!』
 血(しぶ)くような熱に駆られた詰問は、行き場を無くした船の如く、ただ夜を彷徨(さまよ)うばかり。
 さらに一歩近づいた男の気配をすぐ間近に感じながらも、乙女の足は動かない。肩にまで及んだ震えを、もはや諦めめいた心持ちで持て余しながら……セレナは一息にその身を翻した。
「お答えください!亡霊殿(・・・)!」
「…………!?」
 衣裂くようなフィルナ語(・・・・・)が叩き落としたのは、差し伸べられた血染めの手か。それとも、己が名を乗せた声無き呼びかけか。
 撃たれたように見開かれた紅玉の瞳を、涙の膜に覆われた翠緑玉が昂然と射抜く。牽制し合うかの如く見つめ合った彼らの姿は、酷く不穏な……しかしそれでも残酷なまでに美しい絵を作り出していた。
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