黎明を駆る者

第9章 囚われた心 11

『……分かって、いました』
 伸ばしかけた手を止めた男の動止を知ってか知らでか。か細い声は、それでもはっきりとした響きを纏っていた。
『そう……分かって、いたのです』
 かすかに震える真白い手が、地に広がったドレスの裾をきつく掴む。(よじ)れ汚れた紫色を力の限りに握りながら、セレナは再び言葉を零した。
『あなたがここに来る前から……ずっと分かっていました。()が誰かをみとめれば、この国とフィルナがどうなるのか。そして……その結末を避けるためには、自分がどう振る舞うべきかも。私は、何もかも承知の上で、彼の名を呼ばなかったのです』
 ゆっくりと上がった乙女の面を映した(あか)が、それと分かる驚愕の色に染まる。
 血の気が引いた花の(かんばせ)に呪いの如く貼り付いていたのは、悲哀でも涙でもなく……ただひたすらに虚ろな色だった。
『ヒルズ様の言う事は、皆正しい。己の立場も、誇りも……。命すら投げ出して私を救おうとした手を叩き落としておきながら、私は、何ひとつ後悔などしていないのです。そう……何、ひとつ』
 朝靄のような淡さと、そして冷たさをたたえながら、セレナはゆっくりと天を仰ぐ。
 今にも溶け消えてしまいそうな程儚げなその姿が、ルスランの脳裡に呼び起こしたのは……しかし哀憫でも、ましてや共感でもなかった。
 中空で行き場を失くした両の腕を動かしたのは、何かに憑かれたような強烈な勢い。
 爪先から脳天までを痺れさせるような熱とともに駆け上がった感情の名を……彼は、まだ知らなかった。
『…………!?』
『…………い』
 悲鳴になりかけた声を遮ったのは、呻くような吐息に紛れた科白だった。
『そのことの……何が悪い……!』
 唖然たる面持ちで絶句したセレナを知ってか知らでか。その背中を抱き潰さんばかりに抱擁しながら、ルスランは叩き付けるような口調で言の葉を継いだ。
『人の上に立つ者は、時に修羅にもならねばならない。貴女は、己が一族の名誉と我が国の平穏を、ルナン貴族として守ったまで。そのことの、何が悪いというのか』
『ルス……ラ…………』
『貴女は、ヴァイナス家の後継だ。ただ囚われるばかりのフィルナの人質などでは、断じてない。否……そうあっては、ならない』
 すっかり冷えた絹地を鷲掴んだ男の五指は、それと分かる程ひどい震えを帯びている。
 理路整然と流れる滔々たる言葉の大河は、しかしまるで嵐に翻弄される小舟の如く、激しい感情に揺らいでいた。
『……貴女の支えを壊したのは、私だ。その罪科の(あがな)いになるのなら、いかなる願いも果たして見せよう。我が死で償えるのなら、今この場で喉を突く。我が生が役に立つならば、どんな命令も遂行してみせる。()の国になど、二度と渡したりはしない。貴女がルナン(ここ)にいるのなら、私は……私、は……』
 いよいよ力が込められた長い腕に抱きすくめられ、か細い肩がわずかに軋む。
 思わず身じろぎした乙女の躯を、それでもしっかと捕えたまま……ルスランは、その首元にそっと己が面を埋めた。
『貴女も……私を、置いていくのか……』
 耳元の嗚咽を伴に響いたのは、鈴のそれにも似た細く清冽な金属音。
 その源が、己を抱く手に握られた銀と紅玉(ルビー)の腕輪であると気づいた時……セレナは、彼の言わんとする事すべてを理解した。
 言葉もなく震える広い肩の向こうで、完全に身を分かった双子の月が茫々と輝く。その涼やかな光に我と我が身を曝したまま、乙女はただ黙然と座り尽くすしかなかった。
 それでも僅かに動いた繊手に、ルスランは気づいていただろうか。
 躊躇(ためら)いと戸惑いとをそのまま練り上げたように広げられた白い腕は……しかし黒衣の背に触れる間際でぴたりと止まる。
 己を押し潰すような激情の意味を、痛い程に感じながらも……セレナは、どうしてもそれを受け止める事が出来なかった。
 彷徨う心を振り捨てて降りた銀色の睫毛が、再び張った涙の膜をゆっくりと覆う。
 溢れる思いを抱えながら、声もなく嘆くふたつの影を……妖しく輝く双月は、ただ冷たく照らし続けていた。
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