黎明を駆る者

第9章 囚われた心 10

 淡い寂寥とともに別れを告げた、ふたつの月のその下で。
 セレナ・ヴァイナスは、引き倒された己が半身が無残に縛り上げられるのを、愕然と見つめていた。
 胸を打たれた衝撃で声すら出せないのか、息を切らして此方を仰ぐ兄の姿は、擦り切れた心をより一層揺すぶるもので。
 しかし……今にも迸り出そうな激情に駆られながらも、セレナは動く事が出来なかった。
 力強い腕に絡め取られた我が身は、駆ける事はおろか、動く事すら叶わぬ有様。そうでなくとも、愛しい姿を囲む刃の群れは何よりも雄弁な牽制となり、乙女の挙動すべてを押し止めた。
 縋るように上げた視線の先では、拳を握ったレジェットが、無言のまま佇んでいる。酷くひりついたその気配は、どんな慰めも受け付けぬ程苦りきったもので。屈辱にも似た諦めをさらして歪んだその半顔に、一旦引いた涙の膜がぼんやりと掛かった。
『そんな顔、しないの』
 ひやりとした感触とともに響いた声に、乙女が弾かれたように顔を上げる。
 その拍子に零れた涙を拭いながら、ケレス・ヒルズは苦笑とともに肩を竦めた。
『さっきはああ言ったけれど……いきなり、手荒な事をしたりはしないよ。彼らもある意味、被害者みたいなものだからね。まずは、話を聞いてみなくちゃ』
 己を見据える隻眼に宿るのは、しかし同情では断じてない。
 かつて帝都に足を踏み入れた時に感じたのと同じ……狡猾な遣り手のようなその光は、こみ上げる涙の波を引かせてしまう程の冷気を秘めていた。
『……それでいい。君は、利口な子だ。そう……本当に、ね』
 不意に一切の抵抗を止めたセレナの前で、朱い唇が鮮やかな微笑を描く。
 蒼白く強張る乙女の面を覗きながら、地の‘支配者’は再び甘やかな声を紡いだ。
『名前……一度も、呼ばなかったでしょう?』
 疑問符の中に混ざった揶揄の響きに、セレナの視線がはっと上がった。
『フィルナ王家の縁者が、ルナン皇帝の暗殺計画に名を連ねていたなんて。君が()の名を一度でも呼んでいたら、ルナン(ぼくたち)は最高の旗印を手に入れていたろうに。残念と言えば残念だけど……ある意味では、安心したよ。とても、ね』
 ひび割れたように瞠目した翠緑玉(エメラルド)を、鮮やかな緋色の片目が真正面から射抜く。血で汚れた左の手でセレナの髪をふわりと梳き、ケレスは晴れやかな……それでいて、この上なく皮肉げな貌で嗤った。
『君は、立派なルナン貴族だ。より大きな目的のためには、自分の大切なものなど簡単に犠牲にしてしまえる程計算高く、したたかで……そして、冷徹なね』
 心の奥はおろか、魂の(はて)まで見通すようなその視線は……わずかに残ったセレナの正気を、どんな暴力よりも効果的に奪い去った。
 不意にがくりと膝を折ったセレナの肩を支えたのは、やはり傍らの黒衣の男。隙のない……しかし恐ろしく慌てた様子で瞬いた(あか)を殊更愉快げに一瞥しながら、愛らしい‘悪戯者(ウェル・オ・ゾウル)’はゆっくりと立ち上がった。
『……後は、任せるよ。ちゃんと、部屋まで送り届けてあげて。それと……』
 返事も持たずに踵を返した少年が、振り向きざまにひょいと何かを投げてよこす。
 反射的に掴んだその重みに息を呑んだルスランの気配を、相変わらずの忍び笑いがするりとすくった。
『大切なものは、きちんと手の内におさめておかなきゃ。でないと……とられちゃうよ?』
 軽やかに遠ざかる足音を、ざわりと流れた夜風がかき消す。
 その名残にほつれた髪を乱されながらも、セレナは花が萎れるようにへたり込んだまま……視線を上げようともしなかった。
 細い肩から手を離したルスランが、どこかぎこちない仕草でその貌を覗く。
 それでも動こうとしない乙女を映したピジョン・ブラッドが、その明度を僅かに下げたのと……震える呟きが響いたのは、ほとんど同時だった。
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