黎明を駆る者

第2章 迎えと別れ 4

「…………くそっ!!」
 何かは、分からない。それでも、何か‘まずい事’が起こりつつあることだけは、分かり過ぎる程よく分かった。
 何とも形容できぬ不穏な気配に唇を噛みしめながら、ハルはさらに速度を上げた。
 突風に薙ぎ倒された木箱が派手に吹っ飛び、不幸な通行人とともにばらばらと宙を舞う。最後の角を曲がり切って大通りへと飛び込んだハルは、決してまばらではない人の群れを再び風に巻きながら、ひらりと身体を反転させた。
「…………っ!」
 あちこちから上がった悲鳴を伴に、靴の踵が火花を上げる。
 土煙を上げてレアル市街の中央広場に着地した黒髪の青年の姿に、人々は思わずびくりと後退った。
「ル……ルナン人!?」
「ルナン人だぞ!!」
「なんてこった……もう降りて来やがったのか!?」
「馬鹿野郎!!俺は()じゃねぇ!!」
 瞳に敵意を漲らせた群集の科白に、ハルは思わず怒鳴り声を飛ばした。
「ハラーレ=ラィル・レティル(・・・・)だ!!」 
「レティルって、まさか……!?」
「あぁ、そのまさかだ!王女と‘ルナンの死神’の息子だよ!!これでわかったか!?」
 詰め寄ろうとした市民にやけくそ気味な名乗りを上げ、ハルは素早く周囲を見回した。
 広場に立つ人の数は、軽く百人を超えていたろう。料理の途中で飛び出してきたと思しき主婦、荷を担いだ壮年の男、散歩中の老人と子供。老若男女を問わぬ大勢の市民が広場にひしめきながら、空を見上げて何やら言い交わしている。その全ての視線の先にあったのは、頭上を覆い尽くさんばかりの、巨大な浮遊船(ふね)の姿だった。
 全てが漆黒に塗られた流線型の船体は、横たわる典雅な美女を思わせる。随所に装飾を散らし、あくまで優美に造られたなその形容は……それでも明らかに戦船のものだった。
 しかし、何よりも民衆の度肝を抜いたのは、突き出た船首で翻る深紅の旗であったに違いない。血の色を背に踊りはためく黒龍の図像を確かめながら、ハルは己が懸念が既に現実のものとなっていたことを、否応なしに悟っていた。
「あ……あんた…………」
 唇を結んで沈黙した青年をおどおどと見遣り、野次馬のひとりが裏返った声を上げる。
「あんたなら知ってるだろ?こりゃ一体どういうことなんだ!?」
「ルナンが攻めてきたっていうのか!?」
「そんなばかな!!」
「協定の批准は来月のはずだぞ!?」
 不安の度を増した群集の声が、ざわざわと広場を覆う。
 不穏な空気の中で拳を固く握り締め、ハルは再び首をめぐらせた。視神経を総動員して目を凝らし、甲板と思しき位置へと注意を飛ばす。
 船首のあたりでふと何かが動いたような気がしたのは、丁度その時だった。
「…………?」
 思わず身を乗り出した青年の視点の先で、不意に小さな光が閃く。引き絞られた深紅の虹彩が、その横に立つふたつの影を映し出したのと……淡い煌きが炎へと変わったのは、ほとんど同時だった。
「伏せろ!!」
 喉を嗄らした絶叫が、ざわめいた空気を引き裂く。
 瞬間……稲光のような閃光と轟音は、ハルの視界全てを真っ白に覆い尽くしていた。
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