黎明を駆る者

第8章 双月の幻 11

 遥か後方で響き渡った轟音を聞きながら、少年はただ駆けていた。
 右目を覆う包帯と白煙とで思うように拓けぬ視界も、ともすればまろびそうになる両脚も、未だじくじくと血をにじませる幾つかの深手も、(しがらみ)にはなり得ない。嗄れかけた喉を必死で喘がせながら、彼は機械人形のようにその足を動かしていた。
 真横で上がった悲鳴に続いて吹き上がった衝撃波に、小さな体が大きくぐらつく。倒れる事だけはどうにかこらえて体制を立て直しながら、少年は腕の中の包みをしっかりと抱え直した。
 深紅の天鵞絨(びろうど)にくるまれたその内には、一振りの剣が眠っている。全ての無駄を削ぎ落としたような禁欲的なフォルムの刃は、豪奢を形にしたような‘あのひと’にきっと似合う。甘美で両面価値的(アンビバレント)な想像にそっと頬を緩めながら、彼は再びその歩を進めた。
 あちこち抉れ欠けた床石を避けながら一直線に向かう先には、紅の紗幕で覆われた漆黒の玉座が在る。
 靄の中を疾駆する小さな影に今更ながら気づいたのか、玉座の脇で立ち尽くしていた表情なき美童が、手にした儀仗をようやく掲げる。薄笑いとともに深緑色の結晶片を喚び出しながら、少年はいよいよ走る速度を上げた。
 結晶の雨に貫かれた影から上がった血しぶきが、赤黒く染まった緑衣を更に汚す。幾度も足をもつれさせながらたどり着いた最後の(きざはし)を昇りながら、少年は、ざらついた血に縁取られた唇を歪めた。
『……おねんねの時間は、もうおしまい。ここからが……本当のゲームのはじまりさ』
 半笑いで紡がれた科白とともに、赤い布から現れた刃が獰猛に光る。
 薄い幕の先で微動だにしない影を虹彩の内に捉えたまま、ケレス・ヒルズは両の手の剣を一息に薙ぎ上げた。



 己が身を煽る烈風に身を曝したまま、セレナ・ヴァイナスはただ立ち尽くしていた。
 長い裾と袖をあおる嵐の中で、むせ返るような真白い靄が激しくうねる。
 平生の彼女であれば、それ(・・)が強烈な毒にも似た‘何か’を内包している事に……あるいはその‘何か’がどういうわけか己に何の作用ももたらさなかった事に、何らかの疑問を抱いたに違いない。
 しかし、今……ほどけた髪を銀波の如く宙に遊ばせた乙女は、目の前に広がる光景を呆気にとられた表情で見つめていた。
『……あ……あ……!!』
 斜め前方で頽れるようにへたり込んだフィリックスの貌を、此方から伺う事は出来ない。しかし、その広い肩が、地に着いた四肢が隠しようもない震えに支配されている事は、誰の目にも──もっとも、理性を持ってその姿を目にしているような輩は、セレナの他に誰ひとりとしていはしなかったが──明らかだった。
 氷漬けの右手は握り締められる事もなく、ただ空しく地に爪を立てるのみ。‘疾風の翼(サルヴァルキアス)’の名で知られる風の‘支配者’が驚く程明け透けに露にしていたのは……ただひたすらに純然たる恐怖だった。
『……これも、双月の成せるわざ、かの』
 疾風(はやて)の悲鳴に紛れて響いたのは、例の如く艶めいた微苦笑。その主たる少女貴族の姿が、いつしか忽然と消え失せていたことに……果たしてセレナは気づいていたろうか。
 その場に残されたのは、仄かに薫る夏めいた香りと、そしてその裡にかすかに息づく水の気配。しかしながら、乙女の心をただ真っ直ぐに貫いていたのは、常ならぬフィリックスの狼狽でも、正体の知れないマリアンの声でもない。
 悠然たる姿勢で彼方に佇む、ただひとりの男の姿だった。
『馬……鹿な…………!!』
 半ば以上も掠れた戦乙女の科白に合わせて落ちたのは、不気味に粘ついた赤色。その源泉たる頸元──正確にはそこを一直線に走った刀傷の上で、同じく朱に染まった唇が流麗な弧を描く。
 その仕草にびくりと身体を震わせたフィリックスを知ってか知らでか……紅玉(ルビー)を思わせる彼の双眸は、凍り付いたように挙動を止めたセレナだけを見つめていた。
 ゆらり逆巻く風に煽られた戦装束を彩るのは、己が纏う儀礼装束と同じ──暁の空よりも深い紫色。たとえ半ば以上がおびただしい血の汚れに覆われていたとしても、その妖しいまでの存在感は見間違える筈もなかった。
 黒絹の如く流れる束髪を伴に、血糊が飛んだ蒼い頬がゆっくりと緩む。鋭い鼻梁を従えた切れ長の瞳が、紅玉の紅さと冴え、そして確かな意志の強さを以て静かに閃く。かつて柔らかな呼び声とともに己を捉えたものと寸分も違わぬその微笑は、セレナが心の奥深くしまい込んでいた甘苦い感情に、酷く不安定な炎を灯そうとしていた。
『……久しき再会じゃ。存分に楽しむがよい』 
 くつくつと嗤う少女の言葉を肯定するかの如く、男がゆっくりと一歩を踏み出す。
 此方にゆらりと差し伸ばされた右手の上で、美しい手甲(ガントレット)に埋められた紫水晶がちかりと光った。
『のう、‘ルナンの死神(グライヴァ・リ・ルナン)’──いや、ハラーレ……ヴァイナスよ』
 乱れた靴音に埋もれたその響きが、セレナに届くことはなかった。
 振り抜いた腕から滑り抜けた銀の腕輪が、甲高い音とともに床石へと投げ出される。
 己の心臓が打つ鼓動の激しさだけを従えたまま、乙女は真っ直ぐに駆けた。
 自分と同じ血を持つ、唯一無二の男の元へと。
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