黎明を駆る者

第8章 双月の幻 9

 フィリックス・キクスは、‘石橋を叩いて壊す’と言われる己の質をよく理解しているつもりだった。
 先の風の‘支配者’のリベラルに過ぎる飄然さとは正反対の慎重極まる判断力は、()の副官であった時からそれなりに評価を得ていたし、事実降り掛かった危機を幾度となく救いもしてきた。それなりの修羅場をくぐり、風術士の頂に立ってはや五年。その沈着ぶりにはなお一層拍車がかかり、滅多なことには動じもしなくなって久しい。
 しかし、今。一杯に見開かれた赤い瞳に、平生の従容たる光はまるでなかった。
 嗅覚が麻痺する程に甘ったるい香りの中、真っ白く染まった視界がぐらぐらと揺れる。
 頭から強い酒を引っ被ったような酩酊感と、足下をすくい上げるような胸の悪さ。
 充満する煙とともに涌き上がったその感覚は、今や体の隅々にまで行き渡り、その精神をも侵そうとしていた。
 荒げた呼吸とともに床に着いた両手は、自分でもそうと分かる程酷い震えを帯びている。
 それでも歯を食いしばりながら、ようやく身を起こそうとした時。
 フィリックスの耳が拾ったのは、相も変わらず艶やかな女声だった。
『まだ動けるか。さすが、‘支配者’の名は伊達ではないの』
『…………!?』
 たなびいたレースの彩は、夢と現の境を流れるという忘却の川のそれのようで。
 鋭い一瞥とともに右手を握った戦乙女を見下ろし、マリアンはするりと瞳を絞った。
『止めておけ』
 科白とともに腕を掠めた痛みに、フィリックスは再び息を呑んだ。
 柄にもないその反応を招いたのは、床とともに二の腕まで凍り付いた己が右手か。それとも、常日頃と欠片も変わらぬ少女貴族の美しい微笑か。
 声もなく呻くフィリックスとわずかな距離を置いて対峙したまま、マリアンは静かに口を開いた。
これ(・・)は、あらゆるものの均衡を崩す槌のようなもの。一度薫ずれば、精神(こころ)肉体(からだ)も意のままにはならぬ。そのような状況の下で、無理に呪力(ちから)を使おうとすれば……』
 涼やかな科白の切れ目に響いた爆音と……そして続けて上がった悲鳴に、フィリックスははっと目を見開いた。
『三下ならば、あの程度。じゃが、そなたのような呪力の持ち主が暴走すれば……この皇宮も、無事とはいかぬであろうの』
『…………!!』
 再び何処かで響いた破裂音を伴に、戦乙女がふらつくように面を上げる。その蒼然たる貌を温度のない眼差しで見下ろしたまま、少女貴族はゆっくりと息を吐いた。
『案ぜずとも、効果はそう長くは続かぬ。そなたはほんの十分程、そこで大人しゅうしておればよい。小鼠どもが、その宿願とやらを果たすまで、の』
『………っ……!!』
『故に……無闇な威嚇はせぬ方が無難ぞ。‘疾風の翼(サルヴァルキアス)’よ』
 途方もない憤怒と殺気に曝されても、少女はただ平然と微笑するのみ。長い睫毛の下で光る下がり眼は、此方を睨む阿修羅の如き双眸を鏡のように映し出していた。
『行き場のない気は、時によからぬものを引き寄せる。ましてや今宵は双月天心。少々奇怪な事が起ころうとも、不思議はない』
『世……迷い言を……!!』
 唾棄するようにそう唸ったフィリックスが、氷の下で空しく拳を握る。その挙動に気づいているのか、いないのか。豪奢な刺繍に飾られた薄い肩を竦め、少女貴族はくつくつと喉を鳴らした。
『これはまあ、威勢のよいこと。あの時とは、大違いじゃ』
『あの……時……?』
 思わずそう問い返したフィリックスの声に、豊麗な貌から不意にするりと表情が抜ける。
 そのまま足下に投げられたその視線は、例えるなら出来の良すぎる剃刀の如く、どこか異様な凄みを帯びていた。
『五年前よ。西の塔の、白魔の獄。愚かな先代(・・)の醜態など、もはや覚えてはおらぬか?』
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