黎明を駆る者

第9章 囚われた心 5

 生まれて初めて己が名を呼んだ女の声を、ルスランは確かに憶えていた。
 いつかもよく分からぬ頃の昔に、ただの一度だけ。嗚咽のような声音で紡がれたそれ(・・)が纏っていたのは憎悪か、あるいは憐憫であったかもしれない。
 誰に向けられたかも定かではない朧おぼろげなその響きは、ふと思い起こすその度事に、彼の心を不思議な思いで満たしてきた。
 至尊の座につく‘我が君’の前には、穢れた姿を見せる事すら叶わぬ願い。その足下に侍る‘支配者’──主を除き、彼の存在を知る数少ない貴種らは、名を呼ぶことはおろか、視線を合わせることすらしようとしない。
 己の名を呼ぶのは、記憶の中に残る、()の女のみ。
 その現実を受け入れ、あるいは諦観する事で保ってきた彼の心の平穏は、しかしある時、彼自身の手で拐かした乙女によって崩される事になった。
 朗らかに微笑む乙女が彼の名を紡ぐようになったのは、果たしていつからだったか。
 春陽のように穏やかな、あるいは夏の花よりもしなやかなその声は、かつて彼の根幹を成していた‘彼の女’の声を記憶の中へと追いやり、いつしか、欠くべからざる存在となっていた。
 故に、その乙女が本来依るべき(えにし)を取り戻さんとした時、ルスランは心の底から戦慄し……そして決意した。
 主のためではない。他でもない己自身の拠り所を守るために、その刃を振るう事を。



 真横を行き過ぎた刺突は、辛うじて捻った右頬をそれでもすっぱり裂いていった。
 冗談のように散った紅い飛沫を追う間もなく、無理矢理に沈めた体を思いきり引き戻す。その直後に繰り出された第二撃を何とか受け止め、ハルは必死で切れかけた息を継いだ。
 漆黒の刃を挟み向き合った男の貌は、整い過ぎた能面の如く凍えたまま。凪いだピジョン・ブラッドの瞳に、無様に歪む青年の貌を冷冷と映すのみ。
 しかし……その内に宿るものが只の虚無ではない事を、ハルはとうに悟っていた。
 否、悟らざるを得なかった。
 がっちりと噛み合ったふたつの剣先は、かちかちと不気味な音を鳴らしている。相対した者にしか分からぬ程微かな……しかし確かな律動の源は、黒い刀を受ける己ではない。不気味なまでに強い力を加えながらも、まるで(おこり)にかかったように震える太刀は、ハルの脳裏に衝撃にも似た強烈な疑念を広げつつあった。
 ──違う。
 押し込まれた漆黒を必死の力で押し返しながら、ハルは思わず唇を噛んだ。
 かつて‘入らずの森’で相対した男の太刀筋は、確かに恐ろしい冴えを秘めてはいた。それを支えていたのは、冷酷なまでに計算され尽くした、絶対的な理性であったはず。
 しかし……今己が必死になって捌いている刃を突き動かしているのは、理性とは全く別の感情だった。
 体の制御を失う程の力を乗せたそれ(・・)は、心技体のバランスを明らかに欠いている。
 それでもなお隙のない撃に在るのは、危ういまでに凄絶な……そしてただひたすらにひたむきな鬼気。その片鱗を隠そうともせずに向かい来る男の姿は、ハルを物理的に追い詰めると同時に、もはや混乱と言っていい程の精神的衝撃を与えていた。
『……止めて!』
 先に空気を振るわせたのは、驚愕を含んだ鋭い呼気か、それとも(しぶ)いた朱の色か。
 深く裂かれた左肩をかばって横に跳んだ青年を、続けざまの一撃が即座に追う。頭をかち割るような勢いで振り下ろされた太刀を辛くも受け流しながら、ハルは鋭く切歯した。
『ルスラン!止めて!!』
 ぎりぎりと競り合うような金属の悲鳴に、はるか後方で迸った叫び声が重なる。
 噛み合う刃の向こう側で此方を見詰めるのは、限界まで見開かれた翠緑玉(エメラルド)の瞳。蒼白な顔を引きつらせて声を枯らすセレナの身は、恐ろしいまでに優美な線を持つ、巨大な鳥籠に囚われていた。
 極めて華奢な銀色の骨は、しかしよくよく見れば高度に編まれた氷の呪力(ちから)であると気づく。水と風の加護を重ね持つセレナが太刀打ちすら出来ぬ程に強固なそれは、文字通り彼女を籠める檻となり、その挙動を全て奪っていた。
『……無礼は、承知の上』
 自ら封じた乙女へと投げられた声は、相も変わらず平坦なまま。
 目の前で歪む青年の顔を捉えた視線を動かしもせず、ルスランは再び言の葉を零した。
『亡霊を祓えば、すぐに解放する。何も、心配はない』
 穏やかな声音と真反対の激越な加重に、青年の肩から滲んだ赤がはたはたと落ちる。
 その光景になお蒼味を増した妹の貌を視界の隅に捉えながら、ハルは呻くようにして絶叫した。
『勝手に……人を……殺してんじゃねぇよ!』
 失血で痺れかけた腕が思うように動いたのは、今度こそ真の僥倖だった。
 ほんの微かに角度を変えた剣の腹が、真上から加わる圧を微妙に逸らす。その拍子にわずかにのめったルスランの上体を(かわ)した勢いのまま、ハルは一気に両手を閃かせた。
 必殺の意気を込めたはずの一撃は、しかし力と速さがわずかに足りなかった。
 大きく退がった青年と男の間を、鮮やかに斬り飛ばされた闇色の欠片がふわりと隔てる。
 外套(マント)ごと裂かれた背の浅手を気に留めるそぶりもなく、ルスランはただ静かにハルを見据えた。
『貴殿は、亡霊だ』
『……まだ……言うか……!!』
『否……亡霊であらねばならない(・・・・・・・・)
『何……?』
 心底不思議そうに問うた青年を知ってか知らでか、朱を貼り付かせた漆黒の刃が再び上がる。震えの残る両の手でゆらと得物を構えながら、ルスランは温度の失せたテノールを紡いだ。
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