黎明を駆る者

第9章 囚われた心 6

『亡き者は、姫のよすが(・・・)たる事は出来ぬ。彼女を連れて行く事も、その心を囚える事も出来ぬ。この世界の何処にも、彼女の寄る辺はもはやない。そうなれば……姫は、我が君の下に羽を寄せる他ない。未来永劫、ここを離れる事もなく』
 はっと息を呑んだ音を飲み込んだのは、まさに縮地のような疾さ。
 瞬きする間もなく打ち込まれた一閃に、ハルの両脚がずるりと退がる。屈辱よりも衝撃に歪んだ青年の貌を刃越しに覗き込みながら、ルスランは再び(あか)い目を絞った。
『貴殿は、姫を惑わす亡霊。その心をかき乱し、この地で得た平穏を破る侵犯者。その存在を、許すわけにはいかぬ。姫と我が君……そして、私自身のために』
『…………!!』
 恐ろしく穏やかに紡がれた言葉が、ハルの鼓膜を振るわせた……その刹那。
 ルスランは押し込んでいた刃をはね上げ、一気に前へと突っ込んできた。
 たまらず体勢を崩した青年が瞠目した時には……もう遅い。
 瞬時に詰まった間合いの中、魔法のように翻された黒い太刀は、がら空きになったハルの胴を真っ直ぐに押し詰めていた。
『が……っ!?』
 紫衣の右胸を抉るように一突きしていたのは、刃ではなく……鋼鉄で(こしら)えられた柄頭(つかがしら)
 肋骨が砕ける音と衝撃に思わず喉を仰け反らせたハルを、炯々と輝く赫がゆらりと仰ぐ。転瞬、再び翻された大太刀の峰はハルを駄目押しのように打ち据え……その勢いのまま、一気に後方へと弾き飛ばしていた。
『…………!!』
 絹裂くような乙女の悲鳴を伴に、一際太い月桂樹の幹へと叩き付けられた青年の躯が、自重に依ってずるりと崩れ落ちる。その唇が空気が抜けるような音とともに吐き出したのは、彼自身の双眸よりも鮮やかな深紅の色だった。
 折れた肋骨が肺を傷つけたのか、咳き込む度に冗談の如く溢れる血は、必死で呼吸を整えようとするハルの努力を無駄にするどころか、更なる袋小路へと追い込んでいく。
 激しい痛みと酸欠とで朦朧とする意識の中……それでもどうにか機能した耳が拾ったのは、重い軍靴が草を踏む湿った音。
 そのまますらりと突き出された刃は、必死で喘ぐ青年の頬を掠め……無防備にさらけ出されたその首筋でひたりと止まった。
『遊びは、終わりだ』
 苦痛に歪んだハルの貌をただ無慈悲に見下ろしたまま、ルスランは断罪者にも似た口調で言の葉を紡いだ。
『双月は間もなく沈む。彼岸から舞い戻りし亡霊よ。穢れた地へ、還るがいい』
『止めて……!!』 
 ひび割れた絶叫とともに手を伸ばしたセレナを振り切り、朱に濡れた黒太刀がぎらりと閃く。
 その瞬間……夜気を裂いた風切り音は、突如迸った閃光に呆気なく飲み込まれた。
 まさに反射の為せる技か、咄嗟に大きく飛び退ったルスランの影を灼いたのは、夜目にも鮮やかな橙の色と……そして圧倒的な熱を宿した眩い炎。
 火の粉を散らして伸び上がった輝きは瞬きする間に変容を遂げ、気づけば青年と男を隔てる壁の如く、二人の間に立ち塞がっていた。
『そこまでだ』
 噛み付くような勢いで振り返ったルスランを、冷ややかなバリトンの声が抑える。
 ‘冬の庭’を一直線に横切った、炎の壁。その起点たる鳥籠の横に悠然と佇んでいたのは、鮮やかな赤橙(あかだいだい)の衣を纏う長身の男だった。
 同じ色彩の手甲で覆われた右手には、見事な細工で飾り立てられた長大な剣。予備動作も無しに翻された刃が、稲妻のような(はや)さで宙を舞った瞬間……鋼のような氷の骨は、甲高い音とともにばらばらに弾け飛んでいた。
『女の子を泣かせるとは……どっちも、男の風上にもおけねぇ馬鹿どもだ』
 前のめりにふらりと傾いだセレナの躯を、派手な外衣に包まれた逞しい腕が支える。
 酷く震える乙女の肩をしっかと抱きとめ支えながら、レジェット・ジャルマイズは野太い声で笑った。
『ここからは仕置きの時間だ。さあ、ガキども……覚悟は、出来てるだろうな』
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