黎明を駆る者

第3章 常夜の国へ 4

「……バーカ」
「……ば……っ!?」
 嘲りすら滲まぬ程醒め切った言に、アースロックは目を白黒させて絶句した。
「い……いきなり何を言い出すんだ!!どういう意味だよ!?」
「……何も知らねぇお気楽野郎、って言ってるんだよ」
 荒げられた従兄弟の声をあっさりと退け、ハルは呆れたように嘆息した。
「……お前、この国に今、何人の呪法士(じゅほうし)がいるか分かるか?」
 おもむろに……否、常ならぬ程おざなりに振られた青年の右手の中から、紫の得物がふわりと消える。突如振られた話題にどぎまぎするアースを置き捨て、ハルは温度のない科白を続けた。
「王家の嫡流のコーザとお前。そこから一段下がって、宮廷術士の十七宗家と、その分家筋。どんなに甘く見積もっても、せいぜいそこまでだ。有事の際、使い物になるような呪法の使い手はな」
「いきなり、何の話……」
「ルナンは、どうだと思う?」
 突然の切り返しに反論を挫かれ、アースはただ形のよい眉を寄せるばかり。
 その反応をあっさりかわして無視しながら、ハルはするりと瞳を絞った。
「……十倍だ。フィルナで知られている百五十余家の、貴族と名のつく全員(・・)が、戦闘員で、呪法士だ。勿論、‘ギモールの(はん)’レベル以上のな」
「な……っ!」
 恬淡たる声が紡いだ言の葉に、アースロックの瞳が思わずはっと見開かれる。偽の赤眼を過ったのは、どうにも隠しようのない驚愕と……そして恐怖の色だった。
 ‘精霊より過分の加護を受けた者は、不滅の肉と永劫の精神を手に入れる者である。’
 フィルナ南王家の祖たる古代の呪法士、ギモール・サーリンが記したとされるこの言葉は、呪力(じゅりょく)がヒトに及ぼす影響を最も端的に示した一節とも言われている。
 呪力、言い換えれば四精霊(エレメンタル)に干渉する力が強いということは、より複雑かつ強力な呪法を編むことが可能ということ。それは高い火力を持つと同義であり、特に戦士にとっては非常に強力な武器となる。
 しかし……‘神の力の片鱗’とも言われるその力を納めるのに、ヒトの生はいかにも短く、(からだ)はあまりにも脆弱だった。
 故に、その強さがある基準値を越えた時、呪力は器──つまり持ち主の生命そのものに干渉を仕掛け、その安定を保とうとする。その結果として構築されるのが、ギモール・サーリンが言うところの‘不滅の肉と永劫の精神’……即ち、鋼の如き頑強さを備えた常若(とこわか)の体と、常人の数倍とも言われる長い定命だった。
 呪力の生存本能の果てに出現した、ヒトの範疇を越えたヒト。
 その存在を、いにしえのフィルナの民は大学者の名にちなみ、こう呼びそして崇めたという。
 フベラ・ギモール──即ち、‘ギモールの範’と。
「たとえ下級の貴族でも、その呪力はフィルナの王族とほぼ同等。偽翼(ぎよく)の維持に相当の呪力を削られはするだろうが、お前程度の術は容易く使うだろうよ。上級貴族になったら、その強さは桁違いだ。セレナを連れていったのは……そんな連中なんだよ」
 硬直したアースロックに冷えた目を遣り、ハルはどこか皮肉気に肩を竦めてみせた。
「そんな奴らを相手に、お前はどうやって戦う?演武ですら一度も俺に勝った事の無いお前に、一体何ができるっていうんだ?」
「…………っ」
 かつて国ひとつを潰しかけた大貴族を父に持つ彼の言葉は、流石に信憑性があったのか。蒼い顔で俯いた従兄弟から視線を外し、ハルは再び軽く嘆息した。
「だから……悪い事は言わない。とっとと帰れ。死体になる前にな」
 返事も待たずに身を翻したハルの外套が、冷やかに冴えた空気を虚しく掃く。
 そのまま踏み出しかけた足は……しかし次の瞬間、ぴたりとその動きを止めた。
「……だったら、なおのことだ」
 思わず表情を凍らせたハルの背を、低く抑えた声が追う。微かに震えを帯びた手で黒い衣の端を掴み、アースはゆっくりと顔を起こした。
「確かに、お前は強い。呪法も武術も……士官学校はもちろん、軍にだって敵う奴はいないかもしれない。だけど……相手はそれこそ馬鹿みたいに強い、百戦錬磨の‘貴族’なんだろう?お前だって、実戦(・・)は知らない。いざ戦うとなったら、正気を失うに決まってる。いくら腕に覚えがあっても、ひとりじゃ無理だ」
 思いのほか冷静に紡がれた従兄弟の声音は、大広間に滔々と響くコーザの雄弁を思い起こさせる。不快な連想を打ち消すかのように唇を噛んだハルの背を、どこまでも真っ直ぐな視線が射た。
「……五年、一緒にいたんだ。セレナ程じゃあないけれど、お前の事はそれなりによく知ってる。戦う時の癖や、頭に血が昇ると途端に力押しになる事……それに、ここ一番っていうところで詰めが甘い事も。俺だって、自分の身ぐらい自分で守れる。邪魔はしない」
 闇のような黒衣を握る生白い手に、不意に強い力が籠もる。どうしようもない緊張にその身を任せたまま、アースは絞り出すように言の葉を継いだ。
「セレナもだけど……俺は、お前が心配なんだよ」
「…………」
 まるで時が止まったかのような沈黙は、それでもほんの一瞬でしかなかった。
 面映げな心地で俯くアースロックに応じたのは、微かな衣擦れの音と……そして石畳を踏む固い足音。
 外套に絡む従兄弟の腕をあっさり解いた黒衣の主は、その背後を一顧だにすることなく……後方に控える天馬の元へと歩み寄った。
「……ちょっ……おい!!」
「……中心街を抜けたら、一気に飛ばして西王国を抜ける」
 慌てて声を上げたアースを制したのは、ぼそりと零れた低い呟きだった。
「今夜中に‘入らずの森’に入って、その後はひたすら西へ向かう。ここからは、時間との勝負だ。コーザの追っ手や警備の連中に見つからないうちに……とっとと行くぞ」
「え……!?」
 淡々と紡がれた言葉に、アースが弾かれたように顔を上げる。黒駒の背にひらりと飛び乗り、ハルはただぶっきらぼうに肩を竦めた。
「……勝手にしろ」
 呆れとも照れともつかぬ感情が込められた呟きが、静寂を取り戻した夜の街に消える。満面の笑みとともに己の荷と剣を背負い直し、アースはハルの後ろに飛び乗った。
 手綱が打ち鳴らされ、蹄が石畳を蹴って宙へと飛び出す。
 虚ろな(サイザン)に架かる青白い月は、漆黒の羽を広げた天馬と、そしてふたりの乗り手を静かに照らしていた。

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