黎明を駆る者

第8章 双月の幻 3

 長い袖の裡でひっそりと息づく冷ややかさが呼び起こしたのは、鮮血を溶かしたような深紅の宝玉(ピジョン・ブラッド)の紅さ。
 その連想に思わず我が目を細めながら、セレナはつい先刻──大広間に入る前に彼と交わした会話を思い起こしていた。
 ──貴女に、預けよう。
 己が腕から外した銀輪をセレナに差し出した男は、常と変わらず闇のような黒衣に身を包んでいた。
 ──私は、いてはならぬ(・・・・・・)もの故、紅蓮月夜の間には入れぬ。その代わりと思えばよい。
 ──でも、これは……。
 少女の逡巡を気にも留めず、無骨な手は白魚の手を取り、するりと腕輪を通してしまう。その重さに戸惑うセレナを見つめたまま、男──ルスランは再び言の葉を紡いだ。
 ──貴女が往くのは、戦場(・・)だ。駆け引きと虚心の中で、嫌でも戦うことになろう。その支えに、わずかなりともなれるのならば……。貴女の兄の代わりに、その役目を負わせてくれぬだろうか。
 顔色ひとつ変えずにそう言い切った平明な声は、しかし切ないまでに真摯な ‘力’を含んでいて。
 かつて己が語ったものが意外な形で体現されたその瞬間を思い出しながら、セレナは思わず微笑を深めた。
 その様は、大層優雅で……そして、余裕ありげに見えたらしい。
 己を遠巻きにする雰囲気に、微かに混ざった反感を知ってか知らでか。ヴァイナスの家章を従えた白銀の乙女は、毅然とした視線とともに顔を上げた。
『……これはこれは。久々にすげぇ美人がいるかと思えば……嬢ちゃんじゃねぇか』
 タイミングを図ったかのように響いたバリトンの声に、悪意めいた視線がさっと消える。
 はっと振り返ったセレナの視界に映ったのは、目の覚めるような赤橙(あかだいだい)を纏う長身だった。
『よう、セレナ。いつぞや以来だな』
『レジェット……様』
 フィリックスと同じく……いやむしろ遥かに派手な仕立ての儀礼軍装に鎧われた右手を挙げ、レジェット・ジャルマイズはにやりと笑った。
『ヴァイナス家の女の儀礼装なんぞ久々に見たが、よく似合ってるぜ。エスコートは……何だ、お前かよ。色気がねぇなあ』
『……ケレスの代役だ。文句があるなら当人に言え』
 無感動な口調でそう返したフィリックスと並ぶ姿は、さすがに‘支配者’と言うべきか。いつかのくだけた印象が嘘のように、堂々たる威厳を備えている。
 その雰囲気にそぐわぬ気安い表情を保ったまま、大男は呆れたように逞しい肩を竦めた。
『しかしまあ……相変わらず息苦しい場所だな。目がチカチカするぜ』
『……紅蓮月夜の間は、二十年に一度の儀礼の場。威厳が在ってしかるべきだろう。文句を言う前に襟を正せ。見苦しい』
『そうは言うけどよ。苦手な物は仕方ねぇだろう?ハラーレも、よく零してたぜ。ここに来るのは、戦に出るより面倒だってな』
『とうさ……父上が?』
『……俺もあいつも、こういう場はどうも苦手でね』
 ぼやきめいた独言に応じた少女の声に、レジェットはひょいと右目を瞑ってみせた。
『珍獣扱いされながら黙って突っ立っているより、屋根裏で昼寝でもしてる方がよっぽど性に合ってた。よくばっくれて、サボったもんだぜ』
『……お前に関しては、昔に限ったことでもないだろうが』
『……うげっ!』
 崩れた襟元を強引に正され、レジェットが派手な悲鳴を上げてむせる。
 その様子を知ってか知らでか、謹厳な態度と表情を崩さぬまま、フィリックスはふと声を低めた。
『それより……そちらはどうだ。何かつかめたか?』
『……おうよ』
 周囲の喧噪に溶けた呟きの意図を、火の‘支配者’は瞬時に汲み取ったらしい。
 派手な飾り紐でくくった長髪をかき上げ、レジェットはにやりと笑った。
『流れ着きそうな範囲は絞れたぜ。可能性があるのは、タラか、バザーダか……あとは、ヴァナあたりか。とりあえず、間者(イヌ)は放った。今は報告待ちだ』
『……あの辺りは下級貴族の領地が多い辺境。ただでさえよそ者は珍しいだろうから、いっそ好都合だ。ケレスによれば、外見は父親そっくり(・・・・・・)らしいからな。余計に目立つだろう』
『え……?』
 聞き逃せぬ言の葉に声を上げたセレナを、二対の視線が鋭く制する。
 思わず肩を強張らせた乙女の耳を打ったのは、先刻より低く小さなアルトの囁きだった。
『独断の行動故、公には出来ないが……この一週間、国境付近は隈無く探した。今現在、火領土(グラウダ)で兄君の死体が上がったという報告は受けていない。希望は、まだある』
『…………!?』
 零れ落ちそうな勢いで見開かれた翠緑玉(エメラルド)に映ったフィリックスの貌は、相も変わらず謹厳に引き締まったまま。鷹の目の如く輝くその双眸には、しかし驚く程柔和な光が在った。
『……アイツ(・・・)のガキだ。そう簡単にくたばるようなタマじゃねぇだろう。だから……心配するな。大丈夫だからよ』
 震える手で口元を覆ったセレナの耳を、苦笑にも似た声がさらりとすくう。
 驚きから一瞬の恐慌、そして安堵へ。雨に濡れた花が綻ぶように緩んだセレナの貌を穏やかな眼差しで見つめたまま、レジェットはふと口の端を上げてみせた。
『今夜は、双月天心だ。今から気を張っていちゃ保たない。面倒なのは、これからだぜ』
『双月……天心?』
『……ケレスの奴、何も説明していないのか』
 醒めやらぬ感情を乗せた戸惑いの声に、フィリックスはため息をつきつつ応じた。
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