黎明を駆る者

第8章 双月の幻 4

『双月天心とは二十年に一度、ふたつの満月が重なることだ。フィルナでどう言われているのかは知らぬが、この国では特別な日とされている。特に、我等貴族にとってはな』
『ま、元々は古くさい伝承だけどな』
 フィリックスの言葉を、レジェットの面倒くさげな科白が継いだ。
『言い伝えによると、双月天心の夜にはこの世とあの世、あと神界との境目が‘消えて無くなる’んだと。その特別な一夜に、皇帝が‘闇夜の王(クヴェラウス)’に祝詞を上げて祈りを捧げるのさ。紅蓮月夜の間(ここ)はその儀式の場、俺ら貴族は見届け人ってわけだ』
『陛下が……御出でになるのですか?』
『……八つの鐘が鳴ったら、そこからな』
 思わず口を挟んだセレナに何とも言えぬ視線を向け、レジェットは装飾紋に埋め尽くされた右袖をもたげた。
 長い指が示したのは、大広間の丁度南面に当たる場所。他より数段高くしつらえられたそこには漆黒の玉座が置かれ、さらに背後には壁より鮮やかな(あか)で塗られた巨大な扉と、黄金細工の典雅な天蓋がしつらえられている。その上から垂らされた紅色の紗は扉と玉座を覆いながら、まるで赤い川の如く床へと流れ落ちていた。
 毒々しいまでの彩に瞬時に凍った乙女の肩を、女にしては骨張った手が軽く叩く。
 隠せぬ困惑が見え隠れする翠緑玉を覗きながら、フィリックスは穏やかにアルトの声を紡いだ。
『……陛下はあの内側に居られる故、直接お姿を見る機会はない。我等はただ沈黙し、平伏するのみ。その時が来たら、それこそ周りに倣えばいい。案ずることはない』
『は……はい』
 どこかほっとした体で嘆息した乙女を見遣る視線はしかし……転瞬、平生の謹厳さにとって代わる。
 セレナがその貌を見上げた時、フィリックスは既に素早くレジェットへと向き直っていた。
『……それよりも、‘光の槍(エヴァライムズ)’だ』
 重々しい呟きとともに腕を組み、フィリックスはするりと虹彩を絞った。
『陛下が表に出てくる、この機を逃すとは思えん。ケレスが手を回してはいるようだが、少々厄介なことになりそうだ。お前もいい加減気を引き締めろ』
『お前は、気ィ張り過ぎなんだよ。その格好だってよ、滅多にない機会だっていうなら、せめて女装してこいって。いくらお前でも、女物の儀礼装ぐらい持ってるだろ?黙ってりゃ、嬢ちゃんまでとはいかねぇまでも、結構いける……って痛てててっ!?』
『……残念ながら、この一週間、忙しくてな』
 突如上がった盛大な悲鳴に応じたのは、相も変わらず恬淡とした科白運びだった。
『ほぼ連日徹夜で、家にも帰れずじまいだ。‘支配者’のうち、ふたりがとっとと職務放棄してくれたおかげでな』
『痛い痛い痛い!!』
 重い長靴の踵でレジェットの足をぐりぐりと踏みつけながら、フィリックスはけろりと肩を竦めた。
『ケレスがぼやいていたぞ。レジェットにはいつかお灸を据えなきゃね、だそうだ。仕置きされぬよう、せいぜい気をつけろ。それに……女装は、男がするものだ。馬鹿者めが』
『分かった、分かったから止めろ!止めろって!!』
 踏まれた足をほうほうの体で引き抜きながら、レジェットは涙目で絶叫した。
『そのケレスに丸ごと押し付けられた陣割りのせいで、俺も似たようなもんだっつーの!お前、覚えてろよ!次の戦で、最前線に飛ばしてやるからな!!』
『残念だったな。私とお前、それにウォルメントは、何があろうと最前線だ。大馬鹿者』
『うるせぇ!大体、ばっくれたのはウォルメントも同じだろうが!俺に八つ当たりする前に、アイツの足踏んでこいよ!!』
『……そうしたいところなのだが、な』
『……あァ?』
 泣き言を即座におさめたレジェットを、ひとひらの氷を孕んだ視線がひたりと射る。
 懐から小さな紙片を素早く取り出し、フィリックスは一気に声を低めた。
『ウォルメントの姿を最後に見たのは、四日前。例の如く引きこもったかと思っていたが……昨夜、これを最後に音信不通になった。使い魔(サヴァント)も放ったが、返事は来ずじまいだ』
『…………』
 受け取ったものをちらりと見遣り、レジェットが素早く視線を巡らせる。貴人がさざめく広間を見渡すその瞳はいつしか、ぬかりなく光る狩人のそれに変貌していた。
『……ケレスはどうした?』
『今朝方、使い魔でセレナのことを頼まれた。こちらも、姿は見ていない』
『……ま、用心するに越した事はねぇな』
 手元の紙片をぐしゃりと潰し、レジェットがふと天を仰ぐ。
 何でもないような仕草の中に仄見える剃刀めいた気色は、一体何を思うが故か。
 セレナがそう思いを巡らせた時、火の‘支配者’の派手な軍衣は既に鋭く翻されていた。
『……悪いな、嬢ちゃん。ちょいと野暮用だ』
『ヒルズ様には、一昨日お目にかかりました。何か……あったのですか?』
 不安げに眉を寄せたセレナの言葉に、レジェットはただ気持ちのいい微笑だけを返した。
『ケレスの気まぐれとウォルメントの無関心は、今に始まったことじゃねぇ。サボり魔どもの捕獲に行くだけだ。すぐ戻るからよ』
『でも……』
『心配ねぇって』
 それでも何か言いたげな乙女の頭を、大きな掌がぽんと撫でる。ゆっくりと見上げた男の顔には、いつも通りの親しげな……しかしどこか愁いを帯びた表情が浮かんでいた。
『ハラーレの代わりとはいかねぇが、お前さんの事は、俺らが守る。だから……どうか心穏やかでいてくれ。大丈夫だから、よ』
『…………』
 穏やかな科白が孕むのは慈愛に満ちた決意の色か、それとも茫々たる寂寞の翳か。その意味をはかりかねたまま、セレナはただ口を噤むことしか出来なかった。
 儚げに曇った乙女の表情に、レジェットが再び微苦笑した……その瞬間。
 踵を返そうとした火の‘支配者’の挙動を遮ったのは、鈴を転がすような笑い声だった。
『これは、頼もしいこと。ずいぶんと、一端の口をきくようになったではないか』
『…………!?』
 勢いよく振り返ったレジェットの前で、赤い唇がゆるりと弧を描く。
 再び空を掻いた赤橙を睥睨するかの如く広げられたのは、薄水色の羽で飾られた、恐ろしく豪奢な扇だった。
『のう、レジェット・ジャルマイズ──いや、‘炎の剣(スライヴァルアーク)’よ』
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